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'''聖護院宮嘉言親王'''('''しょうごいんのみや よしことしんのう''')、[[文政]]4年[[1月926日 (旧暦)|121626日]]([[1821年]][[12928日]]) - [[明治慶応]]14年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]([[1868年]][[9月26日]]))は、[[江戸時代]]末期、明治時代の[[日本]]の[[皇族]]。[[伏見宮邦家親王]]の第2王子。幼称は多嘉宮 (たよしのみや)。
[[天保]]2年([[1831年]])に出家し、雄仁入道親王と称した。
[[天保2年、 (元号)|天保]]2年([[1832年]])、[[光格天皇]]の[[猶子]]となり親王宣下を受ける。嘉言(よしこと)と命名される。
翌年の天保3年([[1831年]])、閑院宮孝仁親王の實子よなる。後に光格天皇の養子になり、養母は姉小路聰子。
 
[[天保2年、 (元号)|天保]]2年([[18321831年]])に出家し、雄仁入道親王と称した。同年、[[光格天皇]]の[[猶子]]となり、天保3年([[1832年]])に親王宣下を受ける。嘉言(よしこと)と命名される。
[[天保]]3年([[1832年]])、京都山科の門跡寺院・[[曼殊院]]に入室した。正室・不詳。
 
[[天保]]3([[1832年]])、京都山科の門跡寺院・[[曼殊院]]に入室した。正室・不詳
慶応4年([[1868年]])[[明治維新]]に際し、'''聖護院宮'''(しょうこういんのみや)を称し、還俗し、再び嘉言親王を称する。その後聖護院宮を譲る。
一品に昇叙され、[[内国事務科//内国事務総督]]となる。
明治1年([[1868年]])47歳。[[北白川宮智成親王|智成親王]]が聖護院宮を相続した。
 
慶応4年([[1868年]])[[明治維新]]に際し、'''聖護院宮'''(しょうこういんのみや)を称し、還俗し、再び嘉言親王を称する。その後聖護院宮を譲る。一品に昇叙され、内国事務科内国事務総督となるが、同年のうちに死去。47歳。[[北白川宮智成親王|智成親王]]が聖護院宮を相続した
{{先代次代|[[聖護院宮]]|初代:1821 - 1868|-|[[北白川宮能久親王|能久親王]]}}
[[Category:日本の皇族|しょうごいんのみやよしことしんのう]]
[[Category:江戸時代の皇族|しょうごいんのみやよしことしんのう]]
[[Category:明治時代の人物|しょうごいんのみやよしことしんのう]]
[[Category:還俗した人物|しょうごいんのみやよしことしんのう]]
[[Category:1821年生|しょうごいんのみやよしことしんのう]]
[[Category:1868年没|しょうごいんのみやよしことしんのう]]
 
{{先代次代|[[聖護院宮]]|初代:1821 - 1868|-|[[北白川宮能久智成親王|能久智成親王]]}}
[[en:Prince Showgonomiya Yosikotosinnou]]
 
[[Category{{DEFAULTSORT:日本の皇族|いんのみや よしことしんのう]]}}
[[Category:江戸時代の皇族]]
[[Category:還俗した人物]]
[[Category:1821年生]]
[[Category:1868年没]]