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[[陰間茶屋]]という陰間を芸者のように抱えた居酒屋・料理屋・傾城屋の類は次第に芝居小屋と分かれて、舞台に立たない陰間を抱えるようになっていった。
 
陰間は男性だけでなく女性をも客に取り、20歳を過ぎると女性だけを相手にする(20(ただし20歳を遙かに過ぎても男性客を相手にしていた者も少なくない)。町人文化が栄えた当時の性の風習では色道の極みは男色と女色の二道を知ることだとされていたため、[[同性愛者]]からだけでなく粋と珍奇を求めて陰間茶屋は多いに栄えた。[[田沼時代]]の頃から次第に廃れ、[[明治維新]]を経て陰間茶屋はなくなっ消滅したという。
 
なお陰間が訛って女性的な男性を指す言葉「[[オカマ]]」になったという説がある。
 
== 歴史背景 ==
当初歌舞伎は女性が舞台に立つ女歌舞伎が許容されていた。しかしながら彼女らの多くたちは[[売春]]を兼業していたため、風紀を乱すとして[[1629年]][[徳川幕府]]により全ての女芸人が舞台に立つことが禁止されると、[[元服]]前の少年による「若衆歌舞伎」が盛んになった(若衆歌舞伎は女歌舞伎が禁止される以前から、後者と並行して人気を博していた)。彼らもまた売色をしていて男女両方を相手にした。[[1652年]]に若衆歌舞伎も禁止されると民衆は必死に再開を嘆願したため、幕府は条件をつけて許可した。その条件とは[[月代]]を剃った男らしい髪型にすることと演劇を中心として音楽や踊りを控えることであった(これ以降の歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼ぶ)。この後も売色は廃れず、女性役の男性役者である[[女形]]にとっては男に抱かれることが必須の修行と考えられるようになった。こうして修行中の女形は「陰間」や「陰子」と呼ばれ、盛んに酒の席に招かれ客に身を売り、舞台に立つようになると「舞台子」と呼ばれた。
 
== 関連項目 ==