「永仁の徳政令」の版間の差分

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'''永仁の徳政令'''(えいにんのとくせいれい)は、[[1297年]]([[永仁]]5)年に[[鎌倉幕府]]の9代[[執権]][[北条貞時]]が発令した、日本で最初の[[徳政令]]。[[元寇]]での戦役や異国警護の負担から没落した無足御家人の借入地や沽却地を無償で取り戻すこを目的に発令。正確な条文は不明だが、現在では3か条が知らる。
正確な条文は不明だが東寺に伝わる古文書によって3か条が知られる。
 
内容は以下の通りである。<br>
(1)[[越訴]]([[裁判]]で敗訴した者の再審請求)の停止。<br> (2-a)[[御家人]]所領の売買及び質入れの禁止。<br> (2-b)既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や領有後20年を経過した土地は返却せずにそのまま領有を続けよ。<br> (2-c)非御家人・凡下([[武士]]以外の庶民・農民や商工業者)の買得地は年限に関係なく元の領主が領有せよ。<br> (3)[[債権]][[債務]]の争いに関する[[訴訟]]は受理しない。<br>と定めたが、(1)と(2-a)は翌年に廃止された。<br>結局これは完全に失敗に終わり、御家人の経済的窮乏が好転するどころか、かえって困窮を推し進め、武士の幕府への忠誠心を薄れさせる結果となった
 
永仁徳政令以前にも類似した政策は行われており、弘安7年(1284年)3月に幕府は越訴に関する訴訟を不受理とする法令を発令し、翌永仁6年には撤回している。
 
[[元寇]]での戦役や異国警護の負担から没落した無足御家人の借入地や沽却地を無償で取り戻すことが目的と理解されてきたが、現在ではむしろ御家人所領の質入れ、売買の禁止、つまり3ヶ条の(2-a)所領処分権の抑圧が主であり、(2-b)はその前提として失った所領を回復させておくといった二次的な措置であり、それによる幕府の基盤御家人体制の維持に力点があったと理解されている。<ref>岩波講座『日本通史 巻8 中世2』「通史」村井章介 p31</ref>
歴史的評価は低く、非御家人層の負担による御家人救済政策で、経済・社会的混乱を及ぼしたとする否定的評価がなされる傾向にある。
 
このうち(1)と(2-a)は翌年に廃止されたが、(2-b)は再確認されており、それに基づく所領の取り戻しはそれ以降にも多く見られる。つまり付随的であったはずのものが一人歩きを始める。また、この法令を楯に所領を取り戻したのは御家人に止まらなかった。東寺に伝わる古文書自体が、東寺領山城国下久世荘の百姓がこれに基づき売却地を取り戻したことに関する文書である。
 
法条貞時の政策は幕府の基盤である御家人体制の崩壊を強制的に堰き止めようとするものであったが、御家人の凋落は、元寇時の負担だけではなく、惣領制=分割相続制による中小御家人の零細化、そして貨幣経済の進展に翻弄された結果であり、そうした大きな流れを止めることは出来なかった。
== 徳政令の概要==
主な内容として、<br>
(1)[[越訴]]([[裁判]]で敗訴した者の再審請求)の停止。<br> (2-a)[[御家人]]所領の売買及び質入れの禁止。<br> (2-b)既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や領有後20年を経過した土地は返却せずにそのまま領有を続けよ。<br> (2-c)非御家人・凡下([[武士]]以外の庶民・農民や商工業者)の買得地は年限に関係なく元の領主が領有せよ。<br> (3)[[債権]][[債務]]の争いに関する[[訴訟]]は受理しない。<br>と定めたが、(1)と(2-a)は翌年に廃止された。<br>結局これは完全に失敗に終わり、御家人の経済的窮乏が好転するどころか、かえって困窮を推し進め、武士の幕府への忠誠心を薄れさせる結果となった。
 
[[Category:鎌倉時代|えいにんのとくせいれい]]