「近藤雪竹」の版間の差分

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'''近藤 雪竹'''(こんどう せつちく、[[文久]]3年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]([[1863年]][[8月4日]]) - [[昭和]]3年([[1928年]])[[10月14日]])は、[[江戸]]生まれの[[書家]]。名は'''富壽'''、[[字]]は'''考卿'''、'''雪竹'''は[[号]]。別号を'''聴泉楼主人'''という。[[落款]]には必ず「雪竹富壽」号と名)と書いた。[[日下部鳴鶴]]に師事。
 
== 概説 ==
日下部鳴鶴門中、屈指の書家で[[隷書体|隷書]]を得意とし、[[明治]]から[[大正]]にかけて活躍した。鳴鶴の書法を忠実に守り、鳴鶴亡き後も同門を取りまとめ、数多くの門弟を輩出した。また、大正時代になり書道会や[[書道展]]の草創期にあっての[[書道#書道団体|書道団体]]で幹事や審査員などを歴任し、書の近代芸術としての地位確立に尽力した。
 
== 略歴 ==
文久3年(1863年)江戸青山の[[山形藩]]水野侯の邸内で生まれる。幼い時から学問を好み[[漢学]]を[[井上葦斎]]に学んだ。書は明治12年(1879年)16歳の時、日下部鳴鶴の門に入り、傍ら[[巌谷一六]]の益を受けた。[[漢]][[魏 (三国)|魏]][[六朝]]の碑法帖を研究し、鳴鶴門の中心人物として[[談書会]]、[[日本書道会]]、[[文墨協会]]、[[健筆会]]、[[書道奨励協会]]、[[日本書道作振会]]その他多数の書道団体で幹事、審査員となって活躍した。[[逓信省]]に明治18年(1885年)から大正12年(1923年)まで43年奉職し、[[位階|従六位]][[勲等|勲六等]]を賜り、昭和3年(1928年)65歳で歿した。
 
== 門弟 ==
門弟も多く、には[[川谷尚亭]]、[[辻本史邑]]、[[菅谷幽峰]]、[[益田石華]]、[[佐分移山]]、[[松本芳翠]]、[[田中真洲]]、[[藤本竹香]]、[[沖六鵬]]などがいる。
 
== 参考文献 ==