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'''中山 兼宗'''(なかやま かねむね、[[長寛]]元年([[1163年]]) - [[仁治]]3年9月3日([[1242年]]))は[[平安時代]]の[[公卿]]・[[歌人]]。[[内大臣]]・[[中山忠親]]の長男。母は[[弁官|権右中弁]][[藤原光房]]女。正室は[[藤原重家]]女。[[正二位]]、[[按察使]]、[[権大納言]]。子に[[中山忠宗|忠宗]]・[[中山仲親|仲親]]・[[良豪]]らがいた。
 
[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])叙爵。[[侍従]]・[[近衛府|左近少将]]・右近中将・[[阿波国|阿波]]介・[[伊予国|伊予]]権介・[[播磨国|播磨]]権介・[[備中国|備中]]権介を歴任。[[建久]]4年([[1193年]])[[蔵人頭]]に補任され、同6年[[参議]]に任ぜられ、権大納言を経て[[建暦]]元年([[1211年]])[[正二位]][[大納言]]に至った。議政官として、[[大嘗祭|大嘗会]]御禊次第司御後長官・[[加賀国|加賀]]権守・[[中宮職|中宮]]([[九条立子]])大夫・按察使などを兼帯。[[建保]]6年([[1218年]])息子の忠定を参議に申請して自らは大納言を辞すが、2年後の[[承久]]2年には「子強好交衆、又増不孝耳」(『[[明月記]]』[[寛喜]]元年4月9日条)のため忠定を解官させており、父子の確執は深まり、[[天福]]元年([[1233年]])には[[三浦義村]]や[[藤原定家]]の調停を受けるまでに騒ぎは大きくなった。[[嘉禎]]元年([[1235年]])[[大国]]の[[知行|知行国主]]となる。仁治3年9月3日、80歳で薨去した。
 
歌人としては『[[千載和歌集]]』(歌番号328)に1首入る他、『[[新古今和歌集]]』以後の勅撰和歌集に20首入集し、建久2年の若宮社歌合、[[六百番歌合]]、[[千五百番歌合]]、経房家歌合などにも出詠している。『井蛙抄』六によれば、定家は「歌は兼宗大納言、[[束帯]]にて陣座に着て。公事をこなひたる様によむべし」と語ったと伝えられる。また[[治承]]3年([[1179年]])正月には[[高倉天皇]]の朝勤行幸の御遊に伺候し、初めて[[筝]]の役を務めて以来、建久5年には楽所別当にも補され、種々の[[和歌]]会御遊などでも筝や[[琵琶]]の役を担当したことが知られる。