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'''ティベリウス・クラウディウス・ネロ'''('''Tiberius Claudius Nero''', ? - [[紀元前33年]]頃)は、[[ローマ帝国]]第2代皇帝[[ティベリウス]]の実父で、[[アウグストゥス]]の妻[[リウィア]]の最初の夫。
 
== 家族系譜 ==
ティベリウス・ネロは名門[[リウィウス氏族]]に属する[[リウィア・ドルシラ]]と結婚した。リウィアの父マルクス・リウィウス・ドルスス・クラウディヌスは[[クラウディウス氏族]]出身者であるため、同族同士の結婚でもあった。この結婚で[[紀元前42年]]に自らと同名の長男ティベリウス・クラウディウス・ネロを、[[紀元前38年]]に次男[[大ドルスス|ネロ・クラウディウス・ドルスス]]を得ている。ドルススは妊娠中に離婚したリウィアがアウグストゥスと再婚した後に生まれている。
 
ティベリウス・ネロの死後、アウグストゥスの継子となったティベリウスとドルススは[[ユリウス・クラウディウス朝]]の一員に組み込まれ、ティベリウスは第2代の[[ローマ皇帝]]ともなった。
 
== 生涯 ==
名門クラウディウス氏族に属するティベリウス・ネロは、その経歴を[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]付きの[[クァエストル]]として始める。[[ポンペイウス]]との内戦勝利後、カエサルが[[プトレマイオス朝]]と戦ったアレクサンドリア戦争では艦隊を指揮し、勝利に貢献した。このときの貢献のため、プブリウス・スキピオの後任の[[ポンティフェクス|神祇官(ポンティフェクス)]]に任命され、[[ガリア]]にナルボやアレラテなどの[[植民市]]建設の指導のため派遣された。
 
このような経歴からカエサル派としてみられるが、[[紀元前44年]][[3月15日]]にカエサルが暗殺されると共和派に同調を見せる。[[元老院]]において[[マルクス・ユニウス・ブルートゥス]]、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]ら暗殺犯を赦免する決議の出された時には、[[僭主]]殺しの英雄として褒賞を与えるべきだとの提案までしている。
その後[[共和政ローマ|ローマ]]はブルートゥス、カッシウスら共和派と[[マルクス・アントニウス]]、オクタウィアヌス(のちの[[アウグストゥス]])、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]の[[三頭政治|三頭官]](国家再建三人委員会)との間で再度の内戦に突入する。この間ティベリウス・ネロはアントニウスに接近したようで、この後三頭官の間で確執が生じるとオクタウィアヌスに対立して行動していく。
 
[[紀元前41年]]に[[プラエトル|法務官(プラエトル)]]に就任する。この年の冬にマルクス・アントニウスの弟でこの年の[[執政官|執政官(コンスル)]][[ルキウス・アントニウス]]とマルクスの妻[[フルウィア]]がオクタウィアヌスに反抗してペルシア(現在の[[ペルージャ]])で蜂起すると、ティベリウス・ネロもこれに加わった。ペルシアでの敗北後ティベリウス・ネロは妻子を連れてプラエネステ、ナポリと逃走するが、この間にも失敗に終わったものの、解放の条件で奴隷の軍団を組織しようとするなどしている。
 
その後、同じくオクタウィアヌスと対立していたポンペイウスの息子[[セクストゥス・ポンペイウス]]のいる[[シチリア島]]へ逃走したが、ポンペイウスから軍の指揮権を与えられなかったため、マルクス・アントニウスのいる[[アカイア]]へと渡った。