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'''小手森城'''(おでもりじょう)は[[福島県]][[二本松市]](旧東和町)針道にあった戦国時代の[[城館]]。現在は本丸跡に愛宕神社が祀られており、城跡各所に[[石垣]]や[[曲輪]]の遺構が残存している。
[[image:小手森城.jpg|thumb|right|小手森城大手口]]
 
== 概要 ==
 小手森城のある[[中通り]]北部の[[阿武隈川]]東部一体は塩松とよばれ、[[16世紀]]後半は[[小浜城_(陸奥国)|小浜城]]主・大内氏の支配地域であった。この時期の小手森城は[[小浜城_(陸奥国)|小浜城]]の支城であり、菊池氏が城を守っていた。[[天正]]13年(1585年)、[[出羽国]][[米沢城]]主・[[伊達政宗]]は[[小浜城_(陸奥国)|小浜城]]主・[[大内定綱]]攻撃のため、河股(現・[[福島県]][[伊達郡]][[川俣町]])方面から塩松に攻め入り、小手森城を囲んだ。8月27日、[[伊達政宗|政宗]]は城へ総攻撃をかけ、自ら最前線に立ち、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激しい攻撃でその日のうちに落城させた。このとき、[[伊達政宗|政宗]]は城主・[[菊池顕綱]]をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供もまでも殺害したといわれている。その後、[[小浜城_(陸奥国)|小浜城]]も落城し、塩松は[[伊達政宗|政宗]]の所領となったが、[[天正]]16年(1588年)、[[伊達政宗|政宗]]の命で塩松を守っていた[[石川弾正]]が[[相馬義胤]]の誘いに応じて[[伊達政宗|政宗]]に反旗を翻した。閏5月16日に[[伊達政宗|政宗]]は[[石川弾正|弾正]]の籠もる小手森城を攻撃し、約500人を討ち取り、落城させた。これ以後、小手森城が史料に表れることはなく、このとき廃城になったと思われる。