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'''田中 土佐'''(たなか  とさ)は、[[江戸時代]]後期([[幕末]])の[[会津藩]]の[[家老]]である。本名は'''玄清'''(はるきよ)。
 
文政3年(1820年)、会津藩の家老・田中玄良の長男として生まれる。父と同じく家老として会津[[藩]]主・[[松平容保]]に仕えた。[[文久]]2年([[1862年]])、幕府から容保に対して[[京都守護職]]就任を命じられたとき、同じく家老の[[西郷頼母]]と共に江戸に赴いて容保に対して京都の情勢や負担の大きさを説いて反対したという。
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慶応4年([[1868年]])から始まった[[戊辰戦争]]における会津戦争では、主戦派のひとりとして新政府軍と戦い、会津城下の戦いでは甲賀口の守備を担当した。このときの戦いで畳を銃弾を防ぐ壁にしてまで奮戦したといわれるが、重傷を負ってしまい、最期は同じく主戦派の家老である[[神保内蔵助]]と共に会津藩の医師・[[土屋一庵]]の屋敷で刺し違えたという。享年49。
 
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[[Category:幕末徳川側人物]]
[[Category:1820年生]]