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== 4度の仏典結集 ==
 
;第1回
伝承によると、ブッダ入滅後、[[王舎城]](ラージャグリハ)郊外に500人の比丘たちが集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集または王舎城結集)。このときは、[[十大弟子|摩訶迦葉]](マハーカーシャパ)が座長となり、[[阿難]](アーナンダ)と[[十大弟子|優波離]](ウパーリ)が、それぞれ[[経]](教法)と[[律]](戒律)の編集責任者となった。[[十六大国#マガダ国|マガダ国]]の王[[アジャータシャトル]](阿闍世王)が大檀越としてこれを外護(げご)したといわれる。また、[[文殊菩薩]]は[[十大弟子]]とも親しく、この結集に参加したとの伝承がある
 
;第2回
その後の[[インド]]における主な結集としては、仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、[[毘舎離]](ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)がある。『マハーヴァンサ』によれば[[シシュナーガ朝]]のカーラーショーカ王の治世においてであるとしている。
 
;第3回
ブッダ入滅後200年にあたる[[マウリヤ朝]]第3代[[阿育王]](アショーカ王]](阿育王)の治下、華氏城(けしじよう、[[パータリプトラ]])で1000人の比丘を集めて行われた(千人結集)。[[紀元前3世紀]]半ばとされる。
 
;第4回