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'''神保 修理'''(じんぼ しゅり、[[1834年]]([[天保]]5年) - [[1868年]][[3月15日]]([[慶応]]4年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]))は、[[幕末]]期の[[会津藩]]の軍事奉行添役。会津藩家老・[[神保内蔵助]]の長男。初名は直登。諱は'''長輝'''。弟に[[北原雅長]]。妻は会津藩士[[井上丘隅]](きゅうぐ)の次女、[[神保雪子|雪子]]。
 
藩主・[[松平容保]]に仕え、上洛などに随行した。[[1868年]]の[[戊辰戦争]]で容保が新政府軍と戦う決意をすると、時勢の流れから敗戦を読み取って恭順するように進言したが、かえって佐幕派の藩士の怒りを買った。将軍[[徳川慶喜]]、藩主・容保ら幕府首脳が[[鳥羽・伏見の戦い|鳥羽・伏見]]で戦っている兵を捨てて、大阪から江戸へ脱出した責任を取らされ江戸三田の藩邸で切腹を命じられた。墓は港区白金台の興禅寺。
 
[[Category:幕末徳川側人物|しんほしゆり]]