「駿府藩」の版間の差分

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== 略歴 ==
=== 江戸時代 ===
駿河は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[今川氏]]の支配にあったが、[[武田信玄]]の[[駿河侵攻]]で今川氏が没落すると、[[甲斐国|甲斐]][[武田氏]]の支配下に入った。[[天正]]10年([[1582年]])3月に武田氏が滅亡すると、[[徳川家康]]の支配下に入る。天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]で家康が[[武蔵国|武蔵]]に移封されると、駿河には[[豊臣秀吉]]の家臣・[[中村一氏]]が入る。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で、[[中村一忠]](一氏の子)は東軍に与して武功を挙げたことから、[[伯耆国|伯耆]][[米子藩]]に移封され、慶長6年([[1601年]])2月に[[伊豆国|伊豆]]韮山より[[徳川氏]]譜代の家臣・[[内藤信成]]は4万石で入っことにより、駿府藩は立藩した。慶長11年([[1606年]])4月3日、信成は[[近江国|近江]][[長浜藩]]に移封され、代わって[[大御所]]となった徳川家康が、駿府城に隠居城として入ったため、駿府藩は廃藩となった。なお、家康は幕政を執行する立場にあったことから、駿河の政務は家康の側近である[[大久保長安]]や[[伊奈忠次]]、[[井出正次]]らによって行なわれている
 
慶長6年([[1601年]])2月に[[伊豆国|伊豆]]韮山より[[徳川氏]]譜代の家臣・[[内藤信成]]は4万石で入ったことにより、駿府藩は立藩した。
慶長14年([[1609年]])12月12日、家康の10男・[[徳川頼宣]]が50万石で入封したことから、駿府藩が復活する。ただし、頼宣は幼少の上、家康がなおも駿府城で幕政を見ていたことから、実際は家康の補佐を受けて頼宣が藩主になったものであり、藩政も[[本多正純]]や[[安藤直次]]ら家康の側近によって行なわれていた。家康没後の[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])7月19日、頼宣は[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]に移封され、駿府藩は廃藩となった。
 
慶長11年([[1606年]])4月3日、信成は[[近江国|近江]][[長浜藩]]に移封され、代わって[[大御所]]となった徳川家康が、駿府城に隠居城として入ったため、駿府藩は廃藩となった。なお、家康は幕政を執行する立場にあったことから、駿河の政務は家康の側近である[[大久保長安]]や[[伊奈忠次]]、[[井出正次]]らによって行なわれている。
 
慶長14年([[1609年]])12月12日、家康の10男・[[徳川頼宣]]が50万石で入封したことから、駿府藩が復活する。ただし、頼宣は幼少の上、家康がなおも駿府城で幕政を見ていたことから、実際は家康の補佐を受けて頼宣が藩主になったものであり、藩政も[[本多正純]]や[[安藤直次]]ら家康の側近によって行なわれていた。家康没後の[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])7月19日、家康没後、頼宣は[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]に移封され、駿府藩は廃藩となった。
 
[[寛永]]2年([[1625年]])1月11日、第3代将軍・[[徳川家光]]の弟・[[徳川忠長]]が駿河・遠江・甲斐などに50万石で封じられたことから、駿府藩が再立藩される。忠長は将軍後継をめぐって家光と争った経緯から不仲であり、さらに寛永7年([[1630年]])には[[浅間神社]]の神獣とされる猿を捕殺したり、寛永8年([[1631年]])には家臣や侍女を多数惨殺したりするなどの乱行が目立ったことから、5月29日に発狂したとして[[上野国|上野]][[高崎藩]]に蟄居の身とされ、父の[[徳川秀忠]]没後の寛永9年([[1632年]])10月20日には兄によって[[改易]]された。このとき、忠長の家臣の多くも連座により改易されている。そして寛永10年([[1633年]])12月6日、忠長は高崎で自害した。