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ゆず湯 (会話 | 投稿記録)
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'''石田 重成'''(いしだ しげなり、[[1589年]]([[天正]]17年)?-[[1641年]]([[寛永]]18年)?)は、[[石田三成]]の次男。母は[[宇多頼忠]]の娘・皎月院。兄に[[石田重家]]の弟妹に[[辰姫]]([[津軽信枚]]室)の兄。母は[[宇多頼忠]]の娘・皎月院。官位は隼人正。名は重成のほかに、杉山源吾某、杉山仁兵衛俊成。妻は朽木氏の娘、子に[[杉山吉成|杉山八兵衛吉成]]、石田掃部、後妻は柘植氏の娘、子に杉山嘉兵衛成保
 
[[豊臣秀頼]]に[[小姓]]として仕えていた。[[慶長]]5年([[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]で父をはじめとする西軍が東軍に大敗し居城[[佐和山城]]も落城したことを知ると、[[津軽信建]]の助けで[[乳母]]の父・[[津山甚内]]らとともに[[陸奥国]]津軽に逃れた。
 
津軽家に保護されてその後は杉山源吾を名乗り、[[津軽氏]]の保護のもと深味村に隠棲する。慶長15年([[1610年4]])4月28日に若死したという説と1610があるが、慶長15年ごろまで隠棲しその後出府して1641寛永18(1641年)に53歳で没したという説も有力である。三男の成保系『杉山系図』には[[藤堂高虎]]に仕え[[伊勢]]で死去したいう記述があるが真偽は不明長男・吉の子[[弘前藩]]主津軽藩主信枚の娘を妻として家老職についており、子孫の杉山家は津軽家弘前藩重臣として存続した。
 
石田三成が[[豊臣氏|豊臣]]を名乗ることを許されていたという記録は無いが、宗徳寺([[青森県]][[弘前市]])にある重成以下杉山家の代々の墓には豊臣の姓が刻まれているといわれている([[江戸時代]]に豊臣氏を正式に名乗っていたのは[[高台院|北政所]]の実家[[木下氏|木下家]]のみである)。
 
== 参考書籍 ==
[[Category:戦国武将|いしたしけなり]]
* 白川亨『石田三成とその一族』([[新人物往来社]]、[[1997年]])
[[Category:安土桃山時代の人物|いした しけなり]]
 
[[Category:江戸時代の人物|いしたしけなり]]
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[[Category:戦国武将|いしたしけなり]]
[[Category:安土桃山時代の人物|いした しけなり]]
[[Category:江戸時代の人物|いしたしけなり]]
[[Category:石田氏|しけなり]]