「百武源吾」の版間の差分

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昭和4年([[1929年]])に第5戦隊司令官として一時軍令部を離れるが、昭和6年([[1931年]])10月に[[統帥権干犯問題]]処理のために[[末次信正]]軍令部次長を更迭することになったため、百武が次長に就任した。既に軍令部長は因縁深い加藤寛治から[[谷口尚真]]大将に交代していたが、谷口自身も百武に劣らず偏屈で知られており、軍令部内では不評であった。この間は満州事変に対応すべく、大陸の駐留部隊の増強と関東軍の動向を把握する必要性があったが、軍縮条約遵守を最大の懸案事項とする谷口・百武の下では事態が解決しないと軍令部員は考え、結局両名とも翌年2月に更迭された。
 
以後の百武は、昭和7年([[1932年]])2月海軍大学校長、10月[[練習艦隊]]司令官、昭和8年([[1933年]])9月[[舞鶴鎮守府|舞鶴要港部]]司令官、昭和9年([[1934年]])11月第3艦隊司令長官、昭和10年([[1935年]])12月[[佐世保鎮守府]]司令長官、昭和11年([[1936年]])3月[[艦政本部長]]と、できるだけ[[海軍省]]・軍令部と関わらない職を転々とした。練習艦隊司令官としてアメリカを歴訪した際には親米派の提督として各地で大歓迎を受けた。一方で地方長官としては前例にとらわれず奔放に振舞い、幕僚を困惑させることも多かった。
 
昭和11年(1936年)12月より翌年4月まで[[横須賀鎮守府]]司令長官を勤め、この間に大将に昇進して百武の現場生活は終わった。以後は昭和17年([[1942年]])7月まで[[軍事参議官]]として現役に留まった。この時にも陸海軍参議官の中で開戦にただ一人反対し、最後まで対米協調に邁進した。[[永野修身]]軍令部総長が体調を崩し、引退をほのめかした際に、百武が序列から見て総長に任じられる可能性が高いことが問題となった。避戦派の百武が総長となることを阻止する水面下の工作が行われて永野続投が強行されたうえ、戦時下にも関わらず、百武を予備役に編入して海軍から追放することになった。