「マイケル・チェーホフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
7行目:
[[1936年]]には[[イギリス]]において「シアターアートスクール」を開校する。第二次世界大戦の勃発する直前、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に移動。その優れた演技教育を通し、俳優の育成に務めるかたわら、[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]や[[ハリウッド]]に進出した。映画では[[アルフレッド・ヒッチコック]]の『[[白い恐怖]](Spellbound)』(1945年作品)や『ラプソディー』(1954年作品)など多数に出演。彼はまた、多くのハリウッド俳優を指導した。その中には[[イングリッド・バーグマン]]、[[アンソニー・クイン|アンソニー・クィン]]、[[マリリン・モンロー]]、[[グレゴリー・ペック]]、[[ユル・ブリンナー]]などの一流の演技者たちの名がならんでいる。
 
その間、新しい教育の分野で精力的な活動をしていた[[オーストリア]]の哲学者であり精神科学の権威である[[ルドルフ・シュタイナー]]の開拓した思想との出会いに、多大な影響を受けた。この出会いよって、人間の精神の深さと自由な創造力の更なる可能性を追究することとなる。彼の演技教育は、やがて彼の著作『演技者へ』(To the Actor, ゼン・ヒラノ訳)に窺えるように、明確な理論と実践的なトレーニングを含む演技法として体系化される。