「百武源吾」の版間の差分

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遠洋航海を終えて明治36年([[1903年]])9月より「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」乗組に任じられ、主砲着弾観測員を勤めた。翌年3月に「三笠」砲術長に[[加藤寛治]]少佐が着任し、[[8月10日]]の[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]で[[ヴィリゲリム・ヴィトゲフト|ヴィルヘルム・ウィトゲフト]]提督を爆死させた「運命の着弾」に貢献した。加藤の采配に感動した百武だったが、後に私的な諍いから加藤不信に転じて互いの命運を左右することになる。
 
黄海海戦後の10月に「[[韓崎 (潜水母艦)|韓崎丸]]」乗組、12月に「[[富士 (戦艦)|富士]]」乗組に転じ、[[日本海海戦]]は「富士」の乗組員として参戦した。戦後は「[[千代田 (巡洋艦)|千代田]]」「[[香取 (戦艦)|香取]]」「富士」の分隊長、「[[磐城 (砲艦)|磐城]]」の航海長を務めて着実に技量を上げていった。明治40年([[1907年]])に砲術学校特修科、明治41年([[1908年]])には[[海軍大学校]]乙種、明治44年([[1911年]])には大学校甲種と、大尉時代は勤務の傍ら学校教育を頻繁に受け、教養も高めている。
 
大正2年([[1913年]])に初めて赤煉瓦勤務となり、[[軍令部]]参謀・教育本部第2部員を兼任した。大正4年([[1915年]])から2年間、[[アメリカ]]に駐在する。ここでアメリカの国情を詳細にわたって研究し、[[日露戦争]]後にアメリカを仮想敵と定めた海軍の方針が無謀なものであることを悟り、対米協調路線を推進する決意を固めた。しかし、帰国して海軍大学校教官に任じられ、2年間にわたって学生に対米協調の重要性を説き続けたが、血気盛んな学生は「百武教官は恐米論者」と反発を強め、受け入れられなかった。