「アラン・マドラン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Category
Point136 (会話 | 投稿記録)
m bot: rdr回避 (-アメリカ +アメリカ)
7行目:
[[1986年]][[ジャック・シラク]]内閣の産業相として入閣する。1993年エドアール・バラデュール内閣では経済相、[[1995年]][[アラン・ジュペ]]内閣の[[フランス経済・財政・産業省|経済・財政相]]([[大蔵大臣]]、[[財務大臣]]に相当)としてそれぞれ入閣した。しかし、ジュペ内閣では公務員制度改革をめぐり、就任4ヶ月で辞任を余儀なくされた。
 
[[1996年]][[フランス民主連合]]の大統領選挙立候補者を目指したが、フランス民主連合を構成する[[共和党]]党首の[[フランソワ・レオタール]]が候補者となった。共和党は後に自由民主党に改名し、2002年大統領選挙を機会にフランス民主連合を離脱し、大統領多数連合(後の国民運動連合)に加わる。2002年シラクの与党である保守中道連合が勝利すると、[[ジャン=ピエール・ラファラン]]を支持しラファラン内閣成立に協力した。その一方で自由民主党解党に伴い、この時期からマドランの政治的影響力に翳りが生じたとも言われる。また、マドランは、フランスの政界にあっては、中東を民主化するという理由から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を支持し[[イラク戦争]]支持を表明した数少ないひとりであった。
 
[[2005年]]7月[[経済協力開発機構]](OECD)事務局長選挙に立候補したが、最終選考で辞退し、[[メキシコ]]の[[ホセ・アンゲル・グリア]]が選出された。