「東久邇聡子」の版間の差分

[[1915年]]に[[東久邇宮稔彦王]]と結婚し、[[盛厚王]]、[[師正王]]、[[粟田彰常|彰常王]]、[[多羅間俊彦|俊彦王]]の4男をもうける。その中の長男・盛厚王は[[昭和天皇]]第1皇女・[[東久邇成子|照宮成子内親王]](てるのみやしげこないしんのう)と結婚した。
 
ちなみに夫の稔彦王は“発展家”として有名であり、宮家としての規範から外れた行動をとる稔彦王に聡子内親王は振り回されていた。例えば[[大正天皇]]の容態が思わしくなくなったという報が[[ヨーロッパ]]遊学中の稔彦王に入ったが、稔彦王は息苦しい日本に戻るのを嫌い、一に帰国の素振りを見せなかったため、日本で留守宅を守っていた聡子内親王が「私の面目は丸つぶれである」と稔彦王お付きの者に送った手紙が現存している<ref>『宮家の時代』ISBN 4022502266</ref>。
 
[[1947年]][[10月14日]]、夫と共に皇籍を離脱し、以後は'''東久邇聡子'''と名乗る。1978年に81歳で逝去。
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