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[[サンフランシスコ]]入港時、見習士官であった[[赤松則良|赤松大三郎]]とともに日本人初の祝砲を撃っている。
 
帰国後、軍艦操練所教授方頭取、軍艦役などを歴任、小笠原諸島の測量や[[幕府海軍]]の強化に尽力した。
 
維新の際、肺病のため榎本艦隊には参加できず、子息・佐々倉松太郎(軍艦役)を[[中島三郎助]]に同道させた。[[戊辰戦争]]後、松太郎は生還したが、中島父子は戦死。佐々倉は手を尽くし、中島の末子、[[中島与曽八|与曽八]](1868-1929・海軍機関中将)を[[駿府藩|静岡藩]]三等勤番士に採用させ、中島家を存続させた。
 
[[明治]]4年([[1871年]])[[海軍兵学校|海軍兵学寮]]に出仕、[[明治]]6年([[1873年]])には兵学権頭となり、海軍軍人の育成に努めた。
 
 
 
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[[Category:幕末徳川側人物|ささくら とうたろう]]
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[[Category:1830年生]]
[[Category:1875年没]]