「憲徳王」の版間の差分

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[[812年]]9月には[[渤海 (国)|渤海]]へも使者を派遣して動向をうかがっていたが、宣王[[大仁秀]]が即位するに及んで緊張を増し、後に[[826年]]7月には[[新羅#九州|漢山州]]([[京畿道]][[広州市 (京畿道)|広州市]])以北の州・郡から1万人を徴発して{{lang|zh|浿江}}([[大同江]])沿いにに300里の長城を築いて、渤海の南下を食い止める備えとした。
 
一方、国内では度々災害が起こって民が餓える事態が発生しているが、[[租]]を免じたり穀倉を開いて施したりしているものの有効な手立てとはならず、盗賊が跋扈するに至り軍隊を派遣してこれを鎮圧するなど、安定した政治が行なわれているわけではなかった。[[816年]]には飢饉に見舞われて食を求めて唐の[[浙江省]]東部へ流入した民が170人にものぼった。また、この前後で日本に逃れたものも200人以上になったという<ref>井上秀雄1972 p.236.</ref><ref>『[[日本後紀]]』巻二十五(逸文)[[嵯峨天皇]]・[[弘仁]]七年(816年)冬十月:「甲辰。大宰府言、新羅人清石珍等一百八十人帰化。」<br />同八年([[817年]]):「二月乙巳。大宰府言、新羅人金男昌等卌三人帰化。」</ref>。[[819年]]3月には各地の賊徒がいっせいに蜂起したが、諸州の都督や太守に命じて鎮圧することに成功している。しかしこうした地方勢力を王権のもとに確実に掌握できていたわけではなく、首都慶州中心主義的な政治に対して地方勢力は反感を持ちながらも、団結して対抗するための中心を求めていた。[[新羅#九州|武珍州]]([[全羅南道]]、[[光州広域市]])・[[新羅#九州|菁州]]([[慶尚南道]][[晋州市 (慶尚南道)|晋州市]])・[[新羅#九州|熊川州]]([[忠清南道]][[公州市]])の都督職を歴任した[[金憲昌]]が[[822年]]3月に反乱を起こし、熊津(公州市)を都として長安国と号すると、その支配領域は武珍州・菁州・熊川州・[[新羅#九州|完山州]]([[全羅北道]][[全州市]])・[[新羅#九州|沙伐州]]([[慶尚北道]][[尚州市]])の五州及び[[新羅#五小京|国原]]([[忠清北道]][[忠州市]])・[[新羅#五小京|西原]](忠清北道[[清州市]])・[[新羅#五小京|金官]](慶尚南道[[金海市]])の三小京に及んだように、旧[[百済]]の領域を中心として国土の大半が金憲昌を支持し、王権に対抗する姿勢を見せることとなった。金憲昌の反乱は1ヶ月ほどで鎮圧されたが、乱の鎮圧に活躍した討伐軍は貴族の私兵と[[花郎]]集団であり{{fact}}、律令体制の下での兵制は有名無実化していることが露見した。[[825年]]1月には金憲昌の子の金梵文が高達山(京畿道[[驪州郡]])を根拠として反乱を起こしたが、これは北漢山州(京畿道広州市)の都督によって鎮圧された。
 
これらの反乱の平定の論考功賞においては、反乱をいち早く王都に知らせた者を重視する王都中心主義が強く見え、また反乱に加担しなかった地方には7年間の租税を免除するなどしており、地方行政を疎かにするだけではなく、王権の地方への関与を放棄して地方の自治を公認するかのような政策に堕したと見られている<ref>井上秀雄1972 p.238.</ref>。