「榎本健一」の版間の差分

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しかし、[[1950年]]以降はエノケン映画はマンネリ化を否めず、人気を失っていく。さらに舞台で孫悟空を演じた際に、如意棒を左足に落としたことが原因になった[[脱疽]]を発病。[[1952年]]、再発したのは右足で、足の指を切断するという悲劇に襲われた。
 
残された左足を駆使して、主に舞台に活躍の場を移し、[[1954年]]には古川緑波、[[柳家金語楼]]と「日本喜劇人協会」を結成。自ら会長となり、喜劇人協会の公演などで軽演劇を演じ続けた。「雲の上団五郎一座」などの舞台でのヒットも飛ばし、[[1960年]]には紫綬褒章を受章。一方、長男を若くして失い、[[1962年]]に病魔が再発し、右足を大腿部から切断。エノケン最大の武器であった「動き」の魅力は、このとき完全に失われた。失意のエノケンは、自殺未遂を繰り返したが、後妻の献身的な看護と、病床を訪ねた喜劇王[[ハロルド・ロイド]](彼も撮影で指を失っている)の励ましにより、生きる気力を取り戻した。
 
その後、トンボを切れるほど精巧な義足を得て、舞台・映画に復帰。しかし、喜劇であるのに誰も笑ってくれない。「お客さんは俺の義足しか見てくれねえんだもの」と本人が上演後に漏らすような有様だった。榎本はその後も、この義足にいろいろ仕掛けを施して、義足を使った芸も試している。
 
その後は、本格的な[[テレビ]]時代に突入した喜劇界の重鎮として後進育成に努めた。[[植木等]]や[[三波伸介]]、[[萩本欽一]]などの[[高度成長期]]以降の日本の喜劇俳優に大きな影響を与えている。最晩年は、「自分のペーソスに似ている」と持ち歌などの芸を[[坂本九]]に譲ると公言していた。
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