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1934年(昭和9年)2月17日[[宮城県]][[桃生郡]][[河北町 (宮城県)|河北町]](現在の[[石巻市]])に生まれる。父[[日野吉夫]]は、農民運動出身の衆議院議員で、[[日本社会党]]副委員長を務めた。
 
[[1956年]]([[昭和31年]])[[中央大学]][[法学部]]法律学科を経て、中央大学[[大学院]]を修了する。[[1964年]]([[昭和39年]])[[仙台市]]で[[弁護士]]を開業する。父親の影響から社会的弱者の側に立つ市民派弁護士として活躍し、[[1973年]]([[昭和48年]])仙台弁護士会副会長に就任する。父吉夫が健康上の理由で引退を決意すると、社会党委員長だった[[成田知巳]]の勧めで[[1976年]]([[昭和51年]])[[第34回衆議院議員総選挙]]に旧宮城2区から日本社会党公認で立候補し6万7338票を獲得し当選する。当選回数通算8回。[[1986年]]([[昭和61年]])[[第38回衆議院議員総選挙]](衆参同時選挙)では、まさかの落選を喫すが、[[1990年]]([[平成2年]])[[第39回衆議院議員総選挙]]で当選し、国政に復帰する。社会党では右派に所属した。[[1993年]]([[平成5年]])[[山花貞夫]]新委員長の下で政審会長に就任する。[[1996年]]([[平成8年]])[[第1次橋本内閣]]で[[郵政大臣]]として入閣する。同年社会党が[[社会民主党 (日本 1996年-)|社会民主党]]に改称し副党首となるが、社民党を離党し[[民主党 (1996-)|民主党]]に参加した。民主党では、代議士会長などを務めた。
 
[[小選挙区比例代表並立制]]が成立し、地元石巻市を中心とする[[小選挙区]]宮城5区が地盤であったが、[[新党さきがけ]]出身の[[安住淳]]との間で候補者調整、選挙協力がなされ、1996年(平成8年)[[第41回衆議院議員総選挙]]で比例東北ブロックに回った。当初、日野と安住は、[[小選挙区]]と[[比例区]]を交代して立候補するという約束を結んでいたが、日野後援会の高齢化などから、小選挙区は安住、比例区は日野という棲み分けができる。