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これに対抗するため、民衆は自衛組織を作り、盗賊に対抗していたのである。<br/>
但し、満州内の混乱が進むにつれ、力を持った馬賊が本来の「自衛」を越えて盗賊的な行為も行う場合があった。<br/>
また、満州で[[関東軍|日本軍]]の支配が強まりだすとくなるにしたがい、馬賊は日本人とも衝突するようになり、満州各地で日本軍ないし日本人を襲う事件が発生する。
現在の日本人が抱く「馬賊」のイメージは、この頃のものである。<br/>
しかし、全ての馬賊が反日姿勢を示したわけではない。<br/>
当時は、[[外蒙古]]の支配を確実にした[[ソビエト連邦|ソビエト]]が満州での影響力を高めるための工作手段として馬賊を利用したがっようとしており、同じく時に[[内蒙古]]・満州の[[共産主義]]化を食い止め[[関東軍]]が同様に工作員として馬賊利用を行っていた。日ソ双方の思惑により、馬賊は機動工作部隊としての色を帯びていく事になる。<br/>
また、馬賊の中には[[軍閥]]に成長するものもあった。馬賊出身の軍閥としては[[張作霖]]・[[馬占山]]等が有名であるが、彼らは当時中国で繰り返されていた政権交代の混乱に乗じて、その時々の政権の軍事的後見を担う事で連携していた(当時の中国には徴兵制度等はなく、政権に雇われた馬賊が「正規軍・政府軍」であり、また、馬賊の頭目が勝手に官職や軍の階級を自称する例もあった)。ただその連合も、馬賊をめぐる各勢力の思惑の変遷もあって決して長期安定的なものではなく、その時々で連携先を変える、離合集散状態であった。<br/>
満州国崩壊後は、馬賊組織も衰退していった。