「市河家文書」の版間の差分

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== 概要 ==
市河氏は、[[江戸時代]]に編纂された『[[甲斐国史]]』によると[[甲斐国]][[巨摩郡]]市河郷出身の一族で、鎌倉時代初期に信濃に移ったとされる。[[吾妻鏡]]にも登場しており、鎌倉中期には中野氏を下して志久見郷を中心に勢力を築いたと思われる。この地は[[越後国|越後]]との国境に近い奥信濃に位置し、江戸期は[[上杉氏]]に従って会津・米沢と移り、代々受け継がれた文書も米沢へと移った。しかし明治期の変革の中で文書は他家の所有となり、昭和初期に本間家の所有となった(本間美術館所蔵品)。また一部は、開拓民となった子孫が携行して北海道に渡った。
 
本間美術館所蔵品は、平安時代末期の嘉応2年(1170年)から室町時代の応永三十30年(1423年)まではほぼ揃っており、信濃や越後・甲斐の情勢を伝える貴重な一級資料とされ、根本資料(当時の公文書)である鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣などが含まれる。ただ、そこから戦国後期の永禄12年(1569年)までが欠落している。その後の調査で、[[米沢市]]在住の個人所有18通(本間家の手に渡る前に散逸した一部)が発見され、更に昭和44年に釧路市で市河氏の子孫が受け継いでいた文書(本間美術館所蔵品の控えを含む)が発見された。特に釧路で発見された文書には、一時期存在が疑問視されていた「[[武田氏家臣の伝説的軍師「山本勘助]]」の実在を裏付ける[[武田信玄]]可能性ある書状が含まれていことで有名にな注目されている。
 
*[[本間美術館]] 146通(16巻)([[山形県]][[酒田市]])- 国指定重要文化財
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== 「山本勘助」実在の証拠 ==
山本勘助は江戸期、代に成立した軍記物『[[甲陽軍鑑]]の作者よる創作と唯一活躍が記されていた「武田家の名軍師山本勘助」るが、同時代文書には名前が記さ見らた武田晴信の書状が含まないことから『軍鑑』作者による創作的人物であると考えられてい
 
この文書(書簡)は、弘治3年(1557)の第三次[[川中島合戦]]で、武田晴信(信玄)が市河藤若に宛てた感状で、最後に「猶可有山本菅助口上候」(詳しくは山本管助が口上で申しあげる」と書かれている。
この記述の存在市河文書より、少なくとも含まれる「弘治3年(1557年)6月23日付武田晴信書状」(書簡)は、弘治3年(1557)の第三次[[川島合戦]]で、[[武田信玄|武田晴信]](信玄)が市河藤若に宛てた[[感状]]で、最後に「猶可有山本口上候と称する武士(詳しくは山本管助存在す口上で申しあげ記されておりまた与力豪族への使者となるに相応しい地位にあったことが確認された。(後者に関しては、どの程度の地位/身分を想定するかで諸説ある)
 
この文書の評価を巡っては、上野晴朗ら勘助の実在性を示す文書として積極的評価する立場がある一方で、武田家中に「山本管助」と称する関心が存在することを示すのみの文書であるとし、『軍艦』に記される人物像に関しては不確実とする慎重な立場もある。
 
弘治3年文書は、『[[戦国遺文]]』『[[山梨県史]]』に収録されている。