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[[Image画像:Umegatani Totaro I.gif|130px|thumb|right|梅ヶ谷 藤太郎]]
'''梅ヶ谷 藤太郎'''(うめがたに とうたろう、[[弘化]]2年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]([[1845年]][[3月16日]]) - [[1928年]]([[昭和]]3年)[[6月15日]])は、[[大相撲]]の第15代[[横綱]]。[[筑後国]][[上座郡]]志波村梅ヶ谷(現[[福岡県]][[朝倉市]])に生まれる。本名小江藤太郎。身長176cm。体重は105kg、113kg、120kg、124kgと曖昧に伝えられているが、写真では筋骨隆々の体格で体重があるようには見えない。
 
にわかには信じがたいが、赤子の頃から石臼を引きずる怪童であり、乳や菓子よりも酒を欲しがり酒で育てられたという。7歳の時に[[大坂相撲]]に引き取られ梅ヶ枝を名乗る。その後大坂相撲の湊部屋に入門、[[四股名]]はこの時から梅ヶ谷、これは故郷にちなんでつけられたものだという。大坂[[大関]]になった後[[明治]]3年([[1870年]])暮れに東京に加入([[玉垣]]部屋に所属)するが、何と[[序ノ口]]より下の[[本中]](現在の[[前相撲]]にあたる)に据えられてしまう。[[陣幕久五郎|陣幕]]が大阪にいたため大阪から来た[[力士]]が嫌われていたためもあるが、当然こんな地位からでは敵などおらず、明治7年([[1874年]])12月場所新入幕で8勝1分の優勝相当成績を挙げた。明治9年([[1876年]])には福岡県で興行を行っていた際に[[秋月の乱]]に遭遇し、力士と反乱氏族の戦闘になったが平定に活躍。明治10年([[1877年]])6月場所に[[小結]]、12月場所に[[関脇]]になると全勝。明治12年([[1879年]])1月場所新大関。明治13年([[1880年]])5月場所にはまたしても全勝。この間、明治9年([[1876年]])から明治14年([[1881年]])にかけて58連勝(分、預、休は除く)し、大関[[若嶌久三郎]]に1敗したのち明治17年([[1884年]])5月場所まで35連勝を記録。同年2月には横綱免許を授与される。この際に[[吉田司家]]と[[五条家]]の両方から打診があったが梅ヶ谷は吉田司家の免許を希望、両方から授与されたがこれが司家争いの結果を決めたと伝わる。3月の[[天覧相撲]]では[[伊藤博文]]が用意した[[廻し]](自前のまわしが間に合わなかったという)で土俵入りを披露。[[明治天皇]]のリクエストで[[大達羽左エ門|大達]]との割が組まれたが大熱戦の末に引分、天皇は大喜び、[[明治維新]]で低迷していた相撲人気も回復した。明治18年([[1885年]])5月場所を最後に引退、[[年寄]][[雷_ (相撲)|雷]]を襲名した。通算成績は幕内22場所116勝6敗18分2預78休、勝率.951。優勝相当成績9回。
 
人望が非常に厚く、明治37年([[1904年]])大相撲常設館(当時はまだ国技館の呼称はない)建設が計画された際には、[[安田財閥|安田銀行]]本所支店長の[[飯島保篤]]から何と自分の信用だけで40万円(現在なら100億円に相当するという)を無担保で借りることに成功。協会は飯島に感謝し毎場所初日に飯島家に赤飯を届けるようになったという。協会(当時は東京大角力協会)の最高職だった取締を長く務め、[[大正]]4年([[1915年]])6月場所で弟子の[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|梅ヶ谷]]が引退すると[[雷部屋]]と[[年寄名跡]]を譲って廃業したが、協会は「'''大雷'''」の尊称を贈り[[相談役]]待遇として接していた。
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{{歴代横綱}}
 
{{DEFAULTSORT:うめかたに とうたろう}}
[[Category:明治時代の人物]]
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[[Category:1845年生]]
[[Category:1928年没]]
[[Category:福岡県出身の人物]]
 
[[en:Umegatani Tōtarō I]]