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m →‎一族の繁栄 そして 出羽国米沢藩士へ: 越後国府中(府内)の城。
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== 一族の繁栄 そして 出羽国米沢藩士へ ==
[[鎌倉時代]]には越後国蒲原郡の一領主であった。[[永仁]]5年([[1297年]])、山吉定明・長久父子は青蓮華寺(後の長久山[[本成寺]]、新潟県[[三条市]])を建立している。山吉長久は300石をこの寺院に寄進している。[[室町時代]]へ入り、越後国[[守護]]は[[上杉氏]]の世襲となる。しかし、在京の多い守護上杉氏に代わり、越後国に住む[[守護代]]長尾氏が国では力を持ち始める。蒲原[[郡司]]で[[三条城]](同県同市)主の[[三条長尾家]]の[[長尾高景]]が府中(府内)(同県[[上越市]])の[[春日山城]]へ移り越後国[[守護代]]の地位を世襲する越後長尾家の本家の地位を獲得する。これにより府中(府内)長尾家とも呼ばれるようになった三条長尾家の下で、被官山吉氏が越後国蒲原郡の統治権を得、三条城主となり、長久山本成寺の大[[檀家]]となる。[[長尾邦景]]の時代にあたる[[応永]]29年([[1422年]])[[山吉行盛]]が郡司として奥山庄の[[黒川氏]]に知行安堵状を下している。越後国の守護上杉氏と守護代長尾氏の対立の中でも蒲原郡司の地位を失うことはなかった。[[永正の乱]]では[[長尾為景]]について活躍する。[[上杉謙信|長尾景虎]](上杉謙信入道)の時代に上杉氏と長尾氏の対決に終止符を打つが、この中で[[山吉豊守]]は謙信に仕える。豊守を継いだ[[山吉景長|景長]]になって上杉家の家法により領地半減の上に三条城を失い[[木場城]]へ移る。上杉氏が[[出羽国]]米沢([[山形県]][[米沢市]])に移ると共に移った。[[江戸時代]]は出羽国[[米沢藩]]士となる。
 
== 一族 ==