「赤穂藩」の版間の差分

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(石高等改竄をrv)
刃傷事件のあった元禄14年(1701年)に、代わって[[下野国]][[烏山藩]]より[[永井直敬]]が3万2000石で入封する。しかし、5年後の[[宝永]]3年([[1706年]])には[[信濃国]][[飯山藩]]へ転封となっている。
 
同年、[[備中国]][[#西江原藩|西江原藩]]より[[森長直]]が525千石で入封。[[廃藩置県]]までの12代165年間、赤穂藩主としては最も長く在封した。森家の在封期間を通じて藩政は困窮しており、時代を追うごとに悪化の一途を辿った。第5代藩主・[[森忠洪|忠洪]]は財政改革を断行。藩主自ら質素倹約を行い、貯蓄を奨励した。更に塩田開発や[[ろうそく|蝋燭]]の原料となる櫨の植林等殖産興業にも努めた。しかし、財政の再建良くままならった。第10代藩主・[[森忠徳|忠徳]]は[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])、遂に塩を専売制とした。
 
[[幕末]]の[[安政]]4年([[1857年]])になると、藩政の改革をめぐり保守派・革新派の対立が起こり藩内は分裂。革新派の一部は脱藩し[[長州藩]]へ奔った。[[文久]]2年([[1862年]])、攘夷派が保守派の[[家老]]を暗殺するという事件が起こり、藩論は分裂したまま[[明治維新]]を迎えることとなった。
 
=== 森(もり)家 ===
外様 525千石 (1706年 - 1871年)
# [[森長直|長直]](ながなお)〔従五位下、和泉守〕
# [[森長孝|長孝]](ながたか)〔従五位下、志摩守〕