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'''耶律 雅里'''(やりつ がり、[[
幼いころから父に溺愛され、梁王に冊封される。大臣の[[蕭奉先]]は梁王の生母の蕭元妃の兄か叔父にあたるため、その傅役となった。[[皇太子]]候補である異母兄の晋王・[[耶律傲盧斡]]がいたが、彼は素質に優れおり、[[余ケン|余覩]]という側近がいた。蕭奉先はその余覩の政敵であり、梁王を[[太子]]にする構想を持っていた。
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しかし、翌1123年2月に金の太祖は都の[[燕京]]を陥落させ、大石らは蕭徳妃普賢女を奉じて、長春にいる天祚帝のもとへ頼った。だが、天祚帝は自分に無断で、天錫帝を擁立した理由で「おば」の蕭徳妃普賢女を処刑した。
同年5月、遼の遺臣たちは、再び「北遼」を建てて、天祚帝の太子の梁王・雅里をその皇帝に擁立した。しかし、同時に天錫帝の太子だった耶律朮烈(英宗)を支える遺臣たちも擁立に動き出し、こうして北遼は内紛に発展した。同年10月に梁王は英宗(耶律朮烈)派の遺臣たちに殺害された。享年31。
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[[Category:耶律氏|かり]]
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