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'''蕭 奉先'''(しょう ほうせん、? - [[1124年]]?)は、[[遼]]の[[外戚]]。[[契丹]]の名家出身。
契丹名は'''得里底'''(デリティ)
 
妹の蕭元妃が[[天祚帝]]の妃となり、梁王・[[耶律雅里]](次男)、秦王・耶律定(五男)を生んだことで、帝に篤く信任された。そのために北院枢密使に任命され、蘭陵郡王に任じら[[冊封]]された。
 
弟の蕭嗣先が将軍として、[[金 (王朝)|金]]の[[阿骨打|太祖]]の軍勢と戦って大敗してしまった。従来なら蕭嗣先は天祚帝から[[処刑|厳刑]]を受ける立場だったが、兄のとりなしで罪は問われなかった。以後から蕭奉先の専横もあり、遼の軍紀は腐敗にまみれて、対金との戦いで連敗を繰り返した。
そこで、蕭奉先は一案を浮かび、天祚帝に上訴した。彼は「余賭は、晋王・傲盧斡を擁立する陰謀の模様である」と讒言してしまった。天祚帝はまったく蕭奉先の言葉を疑わず、直ちに晋王、耶律余賭一味の鎮圧に動いた。
 
そのため、外征した中の耶律余賭は身の危険を感じてしまい、やむなく金に降ってしまった。翌1122年1月、晋王とその生母の蕭文妃は[[賜死]]を受け、その一族も[[処刑]]されてしまった。蕭奉先の希望通りに秦王が太子なった。
 
しかし、同年3月7日に天祚帝は親征したが、入來山で金に敗れ、[[燕京]]には戻らず[[長春]]に逃れた。間もなく西の[[山西]][[雲州|雲中]]の陰山に潜伏した。同17日、留守を預かった[[皇族]]の[[耶律大石]]は[[李処温]](かつて蕭奉先の推薦を受けた)とともに、天祚帝の従父[[耶律淳]]([[天錫帝]])を擁立し、天祚帝を「湘陰王」に降格して、「[[北遼]]」を建国してしまった。
6月に天錫帝が亡くなり、蕭奉先の甥で太子の秦王・耶律定が擁立され、天錫帝未亡人の[[摂政]]の補佐を受けた。翌1123年正月に秦王は金の猛攻に耐え切れず、陰山にいる父帝のもとを頼った。2月、天錫帝未亡人は「湘陰王降格」の過度で誅殺され、秦王はもとの太子に戻された。
 
同年5月に今度は、もう一人の甥の梁王・耶律雅里が「北遼」の皇帝として擁立され、再び自立してしまった。後に、蕭奉先は天祚帝の寵愛を失い、弟の蕭嗣先とともに誅殺された。
 
 
『[[遼史]]』での蕭奉先評は「狭私滅公」(滅私奉公の反義語)と記されている。
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