「ヴィヴェーカーナンダ」の版間の差分

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ヴィヴェーカーナンダはまず、宗教が様々な教えに分かれているという現実を見つめる。霊性の世界では世界の人々を統一する唯一の教えなど生まれようがない。1つの教典から50年経たないうちに20もの宗派が生まれる。まして教典が違う宗教の間に差異が生じるのは尚更のことだ。ヴィヴェーカーナンダはその違いを認めた上で、積極的に評価する。人が思考する限り、宗派は増え続ける。ならば大いに増えるべきだと。活動を生み出すには2つ以上の力の衝突が必要である。多様は生命の第一の原理であり、全てが同一というのは静止した死の世界だ。問題となるのは自分だけが正しいと思い込み、他の教えを抹殺しようとすることだ。彼は「相手の教えを壊すな」、「低いと思われる教えは引き上げよ」という。彼によれば宗教の教義上の違いは矛盾ではなく、1つの真理に対する異なったアプローチである。それらは違いにより補い合う。1つの教義に真理は収まりきらない。多様な宗教の全体が真理である。<br />真理とは狭量なものではなく、ひたすら広い。それは[[仏教]]も[[キリスト教]]も[[イスラム教]]も[[ヒンドゥー教]]も全てを含む、彩り豊かな全体としての神の啓示である。
 
特定の時と場所に現れる有限な宗派に囚われず、大いなる視点から諸宗教の協調を目指す普遍宗教の理想は、頑迷な宗派意識への痛烈な批判だった。ヴィヴェーカーナンダは、宗派が争いではなく協調を始めたときに生まれる大きな力に期待を寄せる。人間にとって魂の探求、[[神]]の光の探求ほど多くのエネルギーを費やさせたものはないからだ。なぜ宗教がそこまで大きな力を持つのかといえば、無限という理想を宗教が内に宿しているからだという。感覚界のなかで無限という理想を求めても必ず挫折する。例えば無限の感覚的快楽など不可能である。無限という理想は超感覚の世界の中に見出される。ヴィヴェーカーナンダは、あらゆる宗教に共通な要素は感覚の限定を超えようとする努力だという。自然の背後に働く大いなる力を見るのも、先祖の[[霊魂]]を崇拝するのも、霊の啓示を受けるのも、悟りを開いて永遠の法則を理解するのも、超感覚的なものに対する関わりだ。宗教の対象は絶対あるいは無限であるがゆえに人間の理性や感覚に収まりきらない。物質に留まることもない。感覚の限定を超え、無限なるものと合一するのが最高の理想なのだと彼は主張する。そして合一のための手段として彼はヨーガを提唱する。活動的、精神分析的、宗教的、哲学的といった様々なタイプの人間が己の性格に合った方法としてとるべきヨーガがある。それぞれ'''カルマヨーガ'''、'''ラージャヨーガ'''、'''バクティヨーガ'''、'''ギャーナヨーガ'''と呼ばれる。これらはヴィヴェーカーナンダの独創というわけではなく、『[[バガヴァッド・ギーター]]』や[[ヨーガ学派]]の思想を彼が再編成し、人間の生全体に当てはめたものである。
 
=== ギャーナヨーガ ===
{{Hinduism}}
ギャーナヨーガは実在をあるがままに見て普遍なる存在と合一することを目指す。自我とは迷盲であり、神のみが実在であることを知によって理解しようとするのがこの哲学的ヨーガの道である。この道についてのヴィヴェーカーナンダの教えは[[ヴェーダーンタ哲学]]の[[不二一元論]]、つまり[[シャンカラ]]の思想が中心になっている。ここで説かれるのは全宇宙は単一の存在であり、名と形が様々な違いを造り出しているということだ。永遠に変わることのない完全な[[ブラフマン]]=[[アートマン]]の上に[[マーヤー]]という形が波のように生まれる。マーヤーはよく幻と訳されたりするが、幻といっても現実性をもっている。時間、空間、因果律といった形式を持ち、様々に変化する現実がマーヤーである。現実は矛盾に満ちている。善と共に悪が栄え、富む人がいる一方で貧しい人がいる。1つの理想を追えばその反動にあう。マーヤーの中での自由は混沌と堕落をもたらし、感覚的快楽は長くは続かない。そのような限定された現実としてのマーヤーの中で人は自由に向かって旅する。真の自由はマーヤーの中にではなく、マーヤーを支配する実在の中にある。多様な現象の中で働く単一にして絶対なるもの、それこそ実在と呼ぶに相応しい。実在は無限であるがゆえに一切の束縛から自由である。あらゆるものは絶対者から派生したというヴェーダーンタ哲学的見地から見れば、「私」と「彼」、「あれ」と「それ」の区別は無智の産物ということになる。そのような区別はマーヤーの中でのものに過ぎず、あらゆるものは神に帰着することを知るのが究極の知である。
 
神は遠くの天国かどこかにではなく、全てのものの中に、人間の中に、自分の中にいるということがヴェーダーンタ哲学の主張である。ある種の宗教が自分の外にいる人格を持った神を信じない者を無神論者と呼ぶように、ヴィヴェーカーナンダは自分の魂の栄光を信じない者を無神論者と呼ぶ。
 
ギャーナヨーガの目的は全ては神であるという教えを外面だけ研究することではない。内面に分け入って合一を知ることが目的だ。実は「神を知る」という表現は適切とは言えない。人間の知は有限なのだから。究極のところではギャーナヨーガは知を踏み台にしてそれ以上のものに至ろうとする。宗教とは論理を無視するものではなく、論理を尽くして論理を超えようとするものであるとされる。
 
=== バクティヨーガ ===
バクティヨーガは神に夢中になることによって小さな「我」を滅し、神と合一することを目指す。これはラーマクリシュナが好んだ道でもある。バクティにも段階がある。初めの準備段階では人は具体的な助けを必要とする。凡人は神の象徴を通してでなければ神を崇拝することはできない。神の象徴とは[[神話]]や[[偶像]]、[[マントラ]]などといったものである。象徴は神そのものではないが重要で、偶像崇拝を否定する宗派は霊性から遠ざかるか、さもなくば偶像の代理を持つとヴィヴェーカーナンダは指摘する。準備段階では霊性の成長を促し、見守ってくれる師(グル)も必要とされる。霊性の師に必要な条件としてヴィヴェーカーナンダは聖典の精神を理解していること、心が清らかなこと、利己的でなく、愛という動機によって働くことを挙げている。象徴や師の助けのもとに魂の浄化が目指されるが、浄化の中で最高のものは放棄である。放棄は最高の愛から生まれる。愛のうち程度の低いものは狂信や執着に堕しうる。それらはかえって憎悪を生む原因となる。低い愛とはつまり「我」が残っていることだとも言える。ヴィヴェーカーナンダは愛の段階を以下のように分けている。
#平凡な愛(シャーンタ)
#召し使いの主人への愛(ダーシャ)
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神のみを愛せよということは、一切が神の顕れであるとする立場からは全てを愛せよということになる。ヴィヴェーカーナンダは愛は神であり、宇宙の原動力だとも述べる。宇宙全体は愛の顕れであり、愛するものと愛されるものという区分は究極的には消滅し、全てが一体となった愛のみが残る。
 
=== ラージャヨーガ ===
ラージャヨーガは瞑想により心を制御して合一を目指す。『[[ヨーガ・スートラ]]』の注釈でラージャヨーガは解説される。『ヨーガ・スートラ』は以下の8つの段階を経て合一に至る道を記している。
# 禁戒
# 勧戒
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# 静慮
# 三昧
'''禁戒'''とは倫理的な規定で、不殺生、正直、不盗、不淫、無所有を守ることである。それは「~すべからず」という消極的な倫理だが、'''勧戒'''になると「~すべし」という積極的な倫理になる。勧戒には心身の清浄、足ることを知る、苦行、読踊、祈りなどが挙げられる。この2つの倫理的段階は心を清めるためのものである。次の'''坐法'''では瞑想の際の座り方について扱われる。正しい姿勢を保つことで心も正される。不動で安楽な姿勢が理想であるという。ヨーガ行者が身体を柔らかくするのも、ひとつには正しい姿勢で長時間瞑想できるようになるためである。つぎの'''調息'''とは呼吸法である。呼吸は心の状態を反映するから、意識的に呼吸を変えることで心も制御できる。細くて長い呼吸により落ち着きが得られる。つぎの'''制感'''とは感覚制御である。外に向いていた感覚を内に向け、内的感覚を養う。次の'''凝念'''になると瞑想も本格化する。この段階では意識を凝縮し、一定の場所に強く結び付ける。集中の対象は身体の一部分や宗教的シンボルなど様々である。'''静慮'''の段階では意識作用が他の作用に影響されずに一筋に集中する。そしてサマーディ'''([[三昧]])'''において意識作用が消え去り、対象のみが残るのである。対象が残った三昧はサヴィカルパ・サマーディ(有種子三昧)と呼ばれる。最終的な三昧とは対象すら消え去るニルヴィカルパ・サマーディ(無種子三昧)である。ヴィヴェーカーナンダは、ラージャヨーガはインド人ならではの精神科学であり、集中の研究であると述べている。<br />金を儲けるにも、神を礼拝するにも、何をするにも、集中の力が強ければ強いほど物事はよくできる。これが自然の門戸を開かせ、光の洪水を溢れ出させる鍵であり、知識の宝庫の鍵である。
 
=== カルマヨーガ ===
カルマは[[業]]、または行為と訳される。人が行う全ての働き、肉体の1つ1つの動き、それぞれの思いは心の実質の上に印象を残し、それが表面に現れずとも下層において潜在意識として働くだけの力を持つようになる。各瞬間における人間の存在は、心に刻まれたこれらの印象の総計によって決まる。これはつまり行為が人間の存在を決めるという考えである。カルマヨーガは行為の結果から自由な無執着により合一を目指す。
 
カルマヨーガは「倫理的ヨーガ」と訳されたりもする。行為の問題を扱うのだから倫理が関係してくるのは当然だが、善を最終目的とする倫理ではない。人間が多少の善行をしたところで世から悪が消えてなくなるわけではない。良かれと思ってしたことでも、観点を変えれば悪になることもある。あらゆる働きは善と悪の混合であり、どちらか一方だけの行為などあるものではない。そもそも生きること自体、他の生物の犠牲の上に成り立っている。カルマヨーガではそういった事実を認め、善と悪が混在する世界は霊的訓練の場所であるとする。ヴィヴェーカーナンダは人の魂の中には知も愛も力も一切があるという。魂に打撃を与えて心の覆いを取り除き、結果をとりだすのがカルマである。その際、外部世界はヒントにすぎない。快楽の追求が人の目的とされがちだが、その反対の苦痛も人の教師になる大事なものである。快と苦が人の性格を形成し、その形成にはカルマが能動的に関わる。注目すべきカルマは大きく目立った善行ではなく、小さくとも日常的な習慣のようなカルマであり、そのような小さな積み重ねにより性格が形作られる。
 
だからこそ日常的な仕事が重要になってくる。仕事は知や力を呼び起こす打撃だとヴィヴェーカーナンダは説く。このとき何が善行なのかはあまり重視されない。善は立場や文化によって様々な相対的なものだ。人それぞれが自分の置かれた立場にあってその義務を果たすことが偉大だとされる。同一の理想によって人を評価してはならない(例えば富を稼ぎ社会の支えになることを義務とする家住者は、出家者を浮浪者と見るべきではない)。各々自身にとっての最高の理想に従えるよう手助けせよとヴィヴェーカーナンダは主張する。これは普遍宗教の理想と共通している。そんな様々な立場を貫くカルマヨーガの共通の理想は、利己的な動機を離れた無私の働きである。利己心は執着を、執着は不幸を呼ぶ。利己的な働きは欲望の束縛を受けた奴隷の働きである。カルマヨーガの働きは執着から自由な主人の働きである。カルマヨーガの行者は報いを求めず、慈愛から行動する。報いを求めない故に彼は行為の結果から自由である。善も悪も行為の結果に過ぎない。彼は善、悪を超えた無執着を目指す。カルマヨーガの行者は日常の働きで真理を得るため、高名な宗教家とはなりにくい。しかし知によって真理を得たブッダ、愛により真理を得たキリストと同じように偉大だとヴィヴェーカーナンダは言う。最も平凡な生活の中に偉大なものがいるとするこの教えは民衆に目を向ける社会的実践とも関係する。
 
=== 社会的実践 ===
ヴィヴェーカーナンダは[[霊魂|霊]]の教えこそ最高のものだと主張して止まないが、現実世界で生きる力をそれ以上に強調することがある。何も行動に移さず、ただ言葉を繰り返すだけの観念的な教えや、信じて待つだけの受動的態度を彼は退ける。まず、強くなければならない。彼は「[[ヴェーダ]]の研究をするよりもフットボールで身体を鍛える方が有益だ」とすら言う。悪をなさないことが善なのではない。悪をもなしうる力を持ちながらも悪を克服することが真の善だという。弱点を気にせず、失敗を恐れず理想の実現に努めよという教えはカルマヨーガとも結びつく。万物は神の現われだというギャーナヨーガ、神を愛するバクティヨーガも実践と結びつく。集中によって行為の成果を高めるラージャヨーガにしても同様である。知と愛と集中と行為は密接に結びついている。実践の対象として取り上げられるのは社会的下層の人々である。ラーマクリシュナの「神を求めるのならば人間の中に求めよ」という教えを受け継いだヴィヴェーカーナンダは、神は全てのものの中にあるが、人の中に最もよく現れているとする。神を愛することは人を愛することである。
 
自分の心の平和を求める前に他人への奉仕を優先しなければならない。精神の平和はそれから生まれる。ヴェーカーナンダによれば、奉仕する者は奉仕を受ける者より偉いのではない。奉仕する者はむしろ清めの機会を与えてくれた相手に感謝しなくてはならない。彼自身も大いなる実践家であり、多大な社会的業績を上げた人物だった。霊性の才能、知的才能、社会で成功する行動力に恵まれたこの人物がラーマクリシュナという稀有な神秘思想家に直接出会って精神を引き継いだと言える。