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'''松平 綱隆'''(まつだいら つなたか、[[1631年]][[3月25日]]([[寛永]]8年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[1675年]][[5月25日]]([[延宝]]3年[[4月1日 (旧暦)|閏4月1日]]))は[[出雲国|出雲]][[松江藩]]の第2代藩主。父は直政系越前松平家宗家2代。

松江藩初代藩主・[[松平直政]](綱隆は長男。母は久松[[松平忠良]]の娘・久姫(慶泰院)。正室は越前[[松平忠昌]]の娘・亀姫(天称院)。側室は平賀氏(養法院)。子に[[松平綱近|綱近]](四男)、[[松平吉透|吉透]](五男)、津与([[有馬頼元]]室)、豊姫(越前[[松平近時]]室)。官位は従四位下、[[信濃国|信濃]]守、[[出羽国|出羽]]守、侍従。
 
寛永8年(1631年)2月23日生まれ。幼名は久松丸。[[寛文]]6年([[1666年]])2月、父が死去したために同年4月10日に家督を継いで当主となった。そのとき、弟の[[松平近栄]]に3万石([[松江藩#広瀬藩|広瀬藩]])、同じく弟の[[松平隆政]]に1万石([[松江藩#母里藩|母里藩]])を分与している。
 
しかし父・直政の治世末期からすでに始まっていた社会不安や士風の弛緩、さらには財政悪化の兆しなどから藩内で混乱が始まる。その始まりが重臣・[[香西隆清]]の追放事件、次いで大水害による大被害である。これらにより藩内では混乱と財政悪化が隠し切れないものとなり、綱隆は藩札を発行することでこれを切り抜けようとしたが、逆に財政が悪化した。しかも延宝元年([[1673年]])には綱隆が[[小野隆俊]]の美貌の妻に横恋慕するあまり、彼に無実の罪を着せて流罪とするという事件も起こった。後に隆俊は死んだため、松平氏はその怨霊を恐れて推恵社に彼を祀ったが、綱隆は延宝3年(1675年)閏4月1日に突如として急死した。[[享年]]45。法号は宝山院。後を四男の[[松平綱近]]が継いだ。墓所は[[島根県]][[松江市]]外中原町の[[月照寺 (松江市)|月照寺]]。
 
あまりに突然の死であったため、隆俊の亡霊に殺されたと噂されたと言われている。