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[[Image:Xaintrailles_and_La_Hire.jpg|thumb|right|200px|15世紀の彩色本に描かれたラ・イルと[[ジャン・ポトン・ド・ザントライユ|ザントライユ]]]]
'''ジャン・ポトン・ド・ザントライユ'''('''Jean Poton de Xaintrailles'''、[[1390年]]頃 - [[1461年]][[10月7日]])はガスコーニュ出身の[[百年戦争]]末期の[[フランス]]軍の指揮官で、後。1454年フランス元帥(マレシャル・ド・フランス)になる。官職しては他にベリーのバイイ、リムーザンのセネシャルを務め、王の厩舎番長(maître de l’Écurie du roi)どを務めていた。戦闘においては、特に、1424年のヴェルヌイユの戦いでの活躍で知られ、また[[ジャンヌ・ダルク]]の戦友である事で知られる。
 
==略歴==
イングランド軍に対して勇猛果敢さを発揮し、1423年にはヨンヌ近くのクラヴァントの戦いで捕虜となったが、[[ジョン・タルボット|トールボット]]との交換により釈放された。
ザントライユは[[ジャンヌ・ダルク]]と共に[[オルレアン攻囲戦]]([[:en:Siege of Orleans]])で[[オルレアン]]を開放し、コンピエーニュではイングランド軍の包囲を解き、その後も[[ジャルジョーの戦い]]([[:en:Battle of Jargeau]])、[[ボージャンシーの戦い]]([[:en:Battle of Beaugency]])、[[パテーの戦い]]などで活躍した。また、囚われたジャンヌの奪回を試みた際に[[ペロンヌ]]で[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ善良公]]の軍と戦い、敵軍を敗走させた。
 
ジュルブヴォワの戦いでは同郷の[[ラ・イル]]と共に指揮官として活躍し、アランデル伯を捕虜にし、以降の百年戦争の局面ではギュイエンヌ再征服、[[ノルマンディー]]征服などの功績を上げた。
 
シャルル7世は彼の忠誠心溢れる奉仕に対して、1454年にはフランス元帥に任じ、また、サン・マケールの町を彼に与えた。
[[1461年]][[10月7日]]、彼は後継者もなく[[ボルドー]]のトロンペット城で死去した。彼の遺産は教会に寄付された。
 
[[1461年]][[10月7日]]、彼は後継者もなく[[ボルドー]]のトロンペット城で死去した(極めて信憑性は低いが、ユロー嬢との間に子孫がいた可能性もある)。彼の遺産は教会に寄付された。彼の遺言は、ガスコーニュ方言で書かれていた。高等法院に残る文章は次のように彼を評価している。「フランス王国においてもっとも勇敢な指揮官の一人であり、イングランド人を追い出せたのは彼とラ・イールとのおかげである」と。
 
また、彼は[[ザントライユ城]]を再建した事でも知られる。
 
正書法(オルソグラフィー)が確立していなかったため、サントライユ(Saintrailles)とも綴られた。
 
==参考文献==