「ロヴィーサ・ウルリカ・アヴ・プロイセン」の版間の差分

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当時のスウェーデンは、[[ヘッセン王朝|ヘッセン家]]の[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フレドリク1世]]の治世下であったが、フレドリク1世には嫡子がなく、[[ロシア帝国|ロシア]]が[[ホルシュタイン=ゴットルプ家]]から、[[デンマーク]]が自国の[[オルデンブルク朝|オレンボー家]]から王位継承者を推していた。スウェーデン[[議会]]はホルシュタイン=ゴットルプ家のアドルフ・フレドリクを後継者に選び、同時にプロイセンから花嫁を迎え入れる事になった。
 
ロヴィーサは[[1744年]]にスウェーデンに渡った。フレドリク1世は[[ストックホルム]]郊外の[[ドロットニングホルム宮殿]]を結婚祝いとして贈った。ロヴィーサは美貌とその才女ぶりとを知られ、スウェーデンに[[啓蒙時代]]をもたらした。ドロットニングホルム宮殿はロヴィーサの[[サロン]]と化し、庭園や劇場が建設され、「'''[[北ヨーロッパ|北欧]]の[[ヴェルサイユ]]'''」とも称される様になった。ロヴィーサは[[1746年]]にグスタフ、[[1748年]]にカールを生み、王太子妃としての地位を確立する。さらにロヴィーサは、当時宮廷音楽家であった[[ユハン・ヘルミク・ルーマン]]の影響を受けた、優れた[[チェンバロ]]奏者でもあった。
 
[[1751年]]にフレドリク1世が死ぬと、アドルフ・フレドリクは国王となり、ロヴィーサは王妃となった。しかしロヴィーサは、議会が主導権を持つスウェーデンの現状に不満を持っていた。また、ロヴィーサは、夫に啓蒙君主としての理想を求めたものの、善良ではあるが国王としての威厳に欠けるアドルフ・フレデリクには達成し得ないものであった。当然夫婦生活では、ロヴィーサが主導権を握る様になった。