「勝新太郎」の版間の差分

m
10代は[[長唄]]と[[三味線]]の先生として、深川の芸者に稽古をつける。長唄名は杵屋勝丸(2代目)。1954年アメリカ巡業の最後に、撮影所で紹介された[[ジェームス・ディーン]]と出会い映画俳優になることを決意し、転向。23歳の時に[[大映]]京都撮影所と契約、[[1954年]]の『花の[[白虎隊]]』で[[デビュー]]。大映社長[[永田雅一]]は勝を可愛がり、白塗りの二枚目として[[市川雷蔵]]に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたがさっぱり人気は出なかった。同年代の雷蔵、[[山本富士子]]、[[若尾文子]]が早々と大スターとなり君臨する中、憧れの[[長谷川一夫]]そっくりのメークも板につかず、客があまりに入らないので映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」と苦情が絶えなかったほどだった。
 
しかし、白塗りの[[二枚目]]を捨てた[[1960年]]の『[[不知火検校]]』で勝は本領を発揮しはじめる。翌[[1961年]]、中村玉緒と婚約。一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『[[悪名]]』([[田中徳三]]監督、[[今東光]]原作、[[依田義賢]]脚本、[[田宮二郎]]共演)で共演。その中ですき焼き屋の女中・お絹役の玉緒に朝吉が「きっと妻にします」と一札を入れるシーンがある。この映画が最初の大ヒットとなりシリーズ化。1962年3月5日、永田の媒酌で結婚。
続く『[[座頭市]]』『[[兵隊やくざ]]』で絶大なる人気を獲得し、1963年には、長谷川、山本が大映を退社する中、勝は一躍大映の大黒柱の一人となる。特に一連の[[座頭市]]シリーズでの演技は評価が高く、日本のみならずアジア各地でも上映され、勝の代表作にまでなる。
 
匿名利用者