「内藤清長」の版間の差分

来歴・人物
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(来歴・人物)
 
==来歴・人物==
[[三河国|三河]]の内藤氏は[[藤原秀郷]]または[[藤原道長]]の末裔を称する[[内藤氏]]の一派であると自称するが、具体的な事跡が明らかになるのは清長の父の「義清」の代からである。清長は[[松平清康]]、[[松平広忠]]に仕え、[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])織田勢が上野城([[愛知県]][[豊田市]])を攻めた際に、甥の[[内藤正成]]ら一族と共に防戦し、数十人の織田勢を討ち取ったという(「[[寛政譜]]」新訂13巻183項)。[[愛知県]][[額田郡]][[幸田町]]にある荻城跡碑文によれば、[[永禄]]6年([[1563年]])に[[三河一向一揆]]が起こると主家から離反して一揆側に与し、敗れて荻城に蟄居となりこの地で没したという
 
*注 生没年は「藩翰譜」に拠る。[[遠江国]][[二俣城]]において64歳で亡くなったという。「寛政譜」では、二俣城を守備して武田勢と戦い、'''某'''年8月12日にこの地で卒したとしている。
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