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'''圭峰宗密'''(けいほうしゅうみつ, [[780年]] - [[841年]])は、[[中国]]・[[唐]]代の僧。当時の[[仏教]]界において、[[禅宗]]の一派である'''荷沢宗'''と'''[[華厳宗]]'''とを中心として、諸種雑多な仏教思想と実践行とを統一する「'''教禅一致'''」の特異な教説を説いた。また、その著『'''原人論'''』では、[[儒教]]や[[道教]]も仏教のもとに統合しようとする「'''三教融合'''」の試みもはかられている。
 
俗姓は何氏、[[四川省]]の果州西充の出身。最初は儒教を学んだのだが、その後、仏教に転向し、25歳の時に出家して'''道円'''に師事した。後に、『[[円覚経]]』及び[[杜順]]撰『'''法界観門'''』に出会い、自身の立つ立場を確固たるものとした。
 
29歳で[[具足戒]]を受け、[[808年]]になって師の指示によって、師の師である'''南印'''に師事し、その後[[洛陽]]に入り、南印の弟子である報国寺の'''神照'''に禅を学んだ。さらに、[[811年]]に、[[清涼澄観]]に師事し、[[華厳]]を究めた。そのため、宗密は華厳宗'''第5祖'''とされる。以後、著作または講筵によって名声を確立した。
 
[[821年]]以後、[[終南山]]の'''草堂寺'''に住して、『円覚経大疏鈔』等の撰述に没入した。
 
[[828年]]、[[文宗 (唐)|文宗]]の召致により、[[長安]]に入内し、紫衣を賜った。その後、[[裴休]]([[791年]] - [[864年]])と交流が生まれ、彼の質問に返答するという形式によって、『裴休拾遺問』を著した。
 
代表的な著作として『'''禅源諸詮集都序'''』等がある。
 
[[841年]]、草堂寺で没した。裴休に「圭峰禅師碑銘并序」がある。
 
 
== 伝記 ==
* 『[[宋高僧伝]]』巻6「義解篇」第2-3 「唐圭峯草堂寺宗密伝」