「郭子和」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
 
== 経歴 ==
隋の[[大業]]末年、左翊衛となり、罪によって[[楡林市|楡林]]に流された。ときに楡林郡が飢饉におちいると、子和と十八人の決死の士が郡丞の王才を捕らえた。王才の民を虐げた罪を数えて、これを斬り、官倉を開いて窮乏している人々に振る舞った。子和は永楽王を自称し、[[正平 (郭子和)|正平]]と元号を建て、子和の父を太公とし、弟の郭子政を尚書令とし、郭子端・郭子升を左右僕射とした。騎兵二千を有して、南は[[梁師都]]と連係し、北は[[突厥]]に従属して、子を人質に送った。[[始畢可汗]]は子和を平楊天子に冊立したが、固辞して受けなかった。[[役所]]を設けて屋利設といった。
 
[[618年]]、唐に帰順して楡林郡守に任ぜられた。まもなく霊州総管となり、金河郡公に封ぜられた。[[619年]]、郕国公に徙封された。梁師都の寧朔城を襲撃して勝利した。また突厥の動静をうかがって、ひそかに使者を立てて唐に報告していたが、その使者が突厥に捕らえられてしまった。[[処羅可汗]]は怒って、弟の郭子升を捕らえたので、[[621年]]、子和は危険を恐れて、部衆を挙げて南遷し、延州故城に入った。[[622年]]、[[劉黒闥]]に対する討伐に従って、功績により李姓を賜り、右武衛将軍に任ぜられた。[[627年]]、実封三百戸を受けた。[[637年]]、婺州[[刺史]]に任ぜられ、夷国公に改封された。[[656年]]、黔州[[都督]]に転じた。老年のため辞職を願い出て許され、金紫光禄大夫の位を加えられた。