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'''結城氏朝'''
#[[結城氏朝 (下総結城氏)]]は[[結城氏|下総結城氏]]第11代当主。
#[[結城氏朝 (白河氏)]]は[[白河結城氏]]第6代当主。
 
{{aimai}}
== 結城氏朝(下総結城氏) ==
 
'''結城 氏朝'''('''ゆうき うじとも'''、[[1402年]]([[応永]]9年)- [[1441年]][[5月6日]]([[嘉吉]]元年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]))は、[[室町時代]]前期の[[武将]]。[[下総]][[結城氏]]の第11代当主。[[小山泰朝]]の次男で、第10代当主・[[結城満広]]の養嗣子。官位は従五位下、中務大夫。
 
通称は結城七郎。[[永享の乱]]で[[鎌倉公方]]・[[足利持氏]]が[[足利義教]]の幕府軍に敗れて自害した後、関東が将軍の支配下に入ることに不満を抱き、持氏の遺児である[[足利春王]]や[[足利安王]]らを[[結城城]]に迎え、公然と幕府に対して反乱を起こした。いわゆる[[結城合戦]]であるが、これに対して義教は結城城に[[上杉清方]]を総大将とした大軍を送ってこれを攻め、1441年4月に結城城は落城し、安王と春王は捕らえられて後に殺され、氏朝は子で第12代当主であった[[結城持朝]]と共に討死して果てた。[[享年]]40。法号は藤山明永。なお、結城氏は氏朝の末子[[結城成朝]]が生き延び、のちに[[足利成氏]]によって再興が許されている。
 
{{先代次代|[[結城氏|下総結城氏当主]]|1416~?|[[結城満広]]|[[結城持朝]]}}
 
 
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== 結城氏朝(白河氏) ==
 
'''結城 氏朝'''(ゆうきうじとも、生没年不詳)は、[[白河氏]]第6代当主。第5代当主[[結城満朝]]の養子で実父は[[那須資朝]]([[上那須氏]]当主[[那須資之]]の子)。第7代当主[[結城直朝]]の養父。
 
結城満朝の養子となり白河結城氏を継いだ。[[京都扶持衆]]になるなど[[室町幕府|幕府]]に近い人物であり、[[永享の乱]]においては[[上杉憲実]]に味方し[[鎌倉公方]][[足利持氏]]と敵対した。後継には[[小峰氏]]から養子として[[結城直朝|直朝]]を迎えている。
 
{{先代次代|[[白河氏|白河結城氏当主]]|?|[[結城満朝]]|[[結城直朝]]}}
 
[[Category:結城氏|うしとも]]
[[Category:室町時代の人物|ゆうきうしとも]]
[[category:武士|ゆうきうしとも]]
{{生没年|ゆうきうしとも|1402年|1441年}}