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{{雑多な内容の箇条書き|date=2008年5月}}
{{観点}}
'''カウラ事件'''('''カウラじけん''')は[[第二次世界大戦]]時の[[1944年]][[8月5日]]に、[[オーストラリア連邦]][[ニューサウスウェールズ州]][[カウラ]]で起こった日本兵[[捕虜]][[脱走]]事件。史上最多人数(日本人収容者数1,104名の内、545名以上)による脱走と見られる死者数235名(オーストラリア人 4名、日本人 231名)、日本人負傷者数108名。<ref>{{cite web | url=http://www.naa.gov.au/about-us/publications/fact-sheets/fs198.aspx | title=オーストラリア公文書館 | accessdate=2008年6月18日}}</ref>
 
* 死者数:235名(オーストラリア人 4名、日本人 231名)
* 負傷者数:日本人 108名
 
参照:[http://www.naa.gov.au/about-us/publications/fact-sheets/fs198.aspx オーストラリア公文書館]
 
== キャンプ ==
* 名称:"カウラ第12戦争捕虜収容所 (No(英:No. 12 Prisoner of War Compound, 正式名称: Cowra:Cowra PW and I Group( Group、Prisoners of War and Internees Group))"
* 位置:[[NSW]] [[州都]][[シドニー]]の西250kmに位置する町 カウラ の中心部から北東へ3.2kmの郊外地域
* 収容捕虜:[[枢軸国]]捕虜([[イタリア]]人、[[日本軍]]に従事していた[[朝鮮]]人と日本人)・被拘束[[市民]]([[オランダ領東インド]]政府により拘束されていた[[インドネシア]]人)約4,000名が収容されていた。[[1944年]][[8月]]時点、オーストラリア国内の捕虜数:2,223名の日本人捕虜(544名の[[海運業]]者を含む)、イタリア人捕虜([[北アフリカ]]戦線より) 14,720名、ドイツ人 1,585名(海軍、海運業者)この内、1,104名の日本人がカウラ収容所に居た。<ref>{{cite web | title=Cowra Breakout | publisher=Australian War Memorial | url=http://www.awm.gov.au/Encyclopedia/cowra/index.htm | accessdate=2008年6月18日}}</ref>
 
* 収容捕虜:[[枢軸国]]捕虜([[イタリア]]人、[[日本軍]]に従事していた[[朝鮮]]人と日本人)・被拘束[[市民]]([[オランダ領東インド]]政府により拘束されていた[[インドネシア]]人)約4,000名が収容されていた。
** [[1944年]][[8月]]時点、オーストラリア国内の捕虜数:2,223名の日本人捕虜(544名の[[海運業]]者を含む)、イタリア人捕虜([[北アフリカ]]戦線より) 14,720名、ドイツ人 1,585名(海軍、海運業者)<br/>
: この内、1,104名の日本人がカウラ収容所に居た[http://www.awm.gov.au/Encyclopedia/cowra/index.htm]
 
=== インドネシア市民 ===
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== 状態 ==
収容所では"[[ジュネーヴ条約|傷病者の状態改善に関する赤十字条約(ジュネーブ条約)]]" を日本人にも適用(当時、日本政府はジュネーブ条約を批准していない)していたが、日本人捕虜はジュネーヴ条約の条文を理解しておらず[<ref name="cowea">{{cite web | title=
The prison breakout at Cowra, August 1944 | url=http://www.awm.gov.au/encyclopedia/cowra/doc.htm] | publisher=Australian War Memorial | accessdate=2008年6月18日 }}</ref>、当時の日本軍・日本人社会の ”生きて虜囚の辱めを受けず([[戦陣訓]])” という考え方と、欧米(同じ枢軸国であったイタリアを含む)やオーストラリアの”国を代表して全力で戦った、名誉ある捕虜” という認識の相違により、オーストラリア人と日本人捕虜の間ではコミュニケーションはあまりとられなかった(戦陣訓などからなる日本軍人に固有の意識や、<!--優越人種思想・-->外交・国際関係の知識の不足による誤解が背景にある)
 
例えば、アフリカからのイタリア人捕虜が頻繁に家族に手紙を書いていたのに対し、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]規範に述べられているように日本軍・日本人社会は捕虜を不名誉としていた為、捕虜になった日本兵の内7、8割は偽名を用いて登録(本名が本国日本に照会されて、自分の家族などが非国民の扱いを受け、[[村八分]]的差別にあう可能性を避ける為。実際、捕虜第一号となった酒巻少尉の家は非国民扱いされていた)自分の家族、本国に手紙を書くことは行わなかった(参照下記*1)
 
== 契機 ==
1944年8月第1週、カウラの収容人数が大幅に定員オーバーした為に、[[将校]]・[[下士官]]を除く兵士を、400km西に位置する[[ヘー (ニューサウスウェールズ州)|ヘー]](Hay, ニューサウスウェールズ州)の捕虜収容所に移すことを計画し、<br/>[[8月4日]]、ジュネーヴ条約の規定に基づいて移送の前日に、日本人捕虜に通達された。
[[8月4日]]、ジュネーヴ条約の規定に基づいて移送の前日に、日本人捕虜に通達された。
 
:: ;行動の思想的(心理学的)要素
:* 建前と本音の[[乖離]]
:* 優勢人種思想・外交・国際能力の未熟性に基づく、"名誉ある捕虜" の価値観の欠如
:* ジュネーヴ条約などの国際規範の、個人の理解の欠如と、日本海軍規範などを主とする、日本社会の集団心理など
: など
 
日本兵にとって下士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたものであると言う理論に基づき、全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管を受け入れる事が出来ない日本兵はそれを "契機" として捕虜収容所からの脱走を計画する事になる。(以前から計画はしていなかった。)(参照下記*1)
 
日本人はミーティングで、要求を受け入れるか、反対して脱走をするか の多数決投票を行い、 "移送計画へ協調しない=脱走" となる ('脱走へ非参加' への投票者も居た)<br/>。この際、[[トイレットペーパー]]に移送受諾か否かを○×で行ったが、当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いてほとんどが脱走に賛成したことを現生存者は証言している。(下記参考文献*1参照)
: この際、[[トイレットペーパー]]に移送受諾か否かを○×で行ったが、当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いてほとんどが脱走に賛成したことを現生存者は証言している。(下記参考文献*1参照)
 
== 脱走 ==
1944年8月5日(午前2時過ぎ程からの深夜帯)、日本兵1104名は集団脱走を決行した。脱走時、携帯する事の出来た武器と言ったものは身近にある[[フォーク (食器)|フォーク]]・[[ナイフ]]などの金属製品、[[バット (野球)|野球バット]]といったものに過ぎず、機関銃が配備されたオーストラリア警備兵に対抗は出来る状態では無かった。
 
: オーストラリアの[[歴史家]] [[:en:Gavin Long|Gavin Long]]<ref>{{cite web | url=http://www.adb.online.anu.edu.au/biogs/A150149b.htm | title=Gavin Long] ([[1901年|1901]] - [[1968accessdate=2008]])6月18日}}</ref>による言及:<br/>
: "午前2時頃、一人の日本人がキャンプの門へ走り、警備に叫んだ後、ラッパを吹いた。 これに対して警備兵は警告射撃を行った。 続いて”バンザイ”を叫びながら、毛布をかぶり網を通り抜けようとした3人の日本人(夫々が北・西・南側で行動)に発砲した。 日本人捕虜は、ナイフ、フォーク、釘やフックを打ち込んだ野球バットなどで武装していた"[http://www.awm.gov.au/encyclopedia/cowra/doc.htm]
 
: <blockquote>"午前2時頃、一人の日本人がキャンプの門へ走り、警備に叫んだ後、ラッパを吹いた。 これに対して警備兵は警告射撃を行った。 続いて”バンザイ”を叫びながら、毛布をかぶり網を通り抜けようとした3人の日本人(夫々が北・西・南側で行動)に発砲した。 日本人捕虜は、ナイフ、フォーク、釘やフックを打ち込んだ野球バットなどで武装していた"[http://www.awm.gov.au/encyclopedia<ref name="cowea" /cowra></doc.htm]blockquote>
: ''At about 2 a.m. a Japanese ran to the camp gates and shouted what seemed to be a warning to the sentries. Then a Japanese bugle sounded. A [[sentry]] fired a warning shot. More sentries fired as three mobs of prisoners, shouting "[[Banzai charge|Banzai]]", began breaking through the wire, one mob on the northern side, one on the western and one on the southern. They flung themselves across the wire with the help of blankets. They were armed with knives, [[baseball bat]]s, clubs studded with nails and hooks, wire [[stiletto]]s and [[garotte|garotting]] cords.''[http://www.awm.gov.au/encyclopedia/cowra/doc.htm]
 
: <blockquote>''At about 2 a.m. a Japanese ran to the camp gates and shouted what seemed to be a warning to the sentries. Then a Japanese bugle sounded. A [[sentry]] fired a warning shot. More sentries fired as three mobs of prisoners, shouting "[[Banzai charge|Banzai]]", began breaking through the wire, one mob on the northern side, one on the western and one on the southern. They flung themselves across the wire with the help of blankets. They were armed with knives, [[baseball bat]]s, clubs studded with nails and hooks, wire [[stiletto]]s and [[garotte|garotting]] cords.''[http: <ref name="cowea" /></www.awm.gov.au/encyclopedia/cowra/doc.htm]blockquote>
殆どの警備兵は就寝していたが、発砲の後に非常召集されて配置に付いた。
 
殆どの警備兵は就寝していたが、発砲の後に非常召集されて配置に付いた。日本人捕虜は B ブロック (B Compound)の建物に[[放火]]<br/>。約400名が収容所北西部から脱走を試みた。
約400名が収容所北西部から脱走を試みた。
 
: 当時警備兵の証言: "日本人は何を考えているのか分からなかった。野球、相撲などのレクリエーションの自由もあったし、日本人は魚を食べるので、(オーストラリア人とは別に、特別に)魚を食事で支給されていた。脱走時の夜は田舎の[[満月]]で、とても明るく、人の影がよく見えた上に、わざわざ明るくなるように建物に放火をしたので、付近の様子が昼のように目視できた。"(参照:下記*1)
 
: 付近住民の証言:"脱走兵の2、3人が家の前にきて立っていた。母が「もうすぐ[[お菓子]]が焼けるから食べて行きなさい」と迎え入れ、振る舞った。”(参照:下記*1)
 
多数の死傷者を出しながらも、捕虜収容所の敷地外へ脱出する日本兵もいたが最終的には全員捕縛された。
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日本政府は、カウラ事件が起きた事を確認していたが、政府は日本兵捕虜の存在自体を否定しており、戦時中に発表する事は無かった。
 
== 〜現在事件後の経緯 ==
以来、毎年カウラでは[[慰霊祭]]が行われている。
 
*[[1970年 ]]、教育映画製作者の株式会社東中代表・高橋克雄監督とその妻であり製作者の富美子夫妻が、JETROの海外PR映画『オーストラリア・東経135度上の隣人』製作取材のため、カウラを訪問している。日本人墓地取材には、前市長オリバーとカップス市長夫妻が正装して同行した。事件の戦死者(オーストラリア警備隊による機関銃掃射)が、広島師団出身者であることから、広島の地酒を持参して墓に注ぎ、慟哭、撮影に苦慮した。墓地は映画として記録され海外広報に使われた。高橋夫妻は、日本人墓地が出来てから初めてカウラ市に泊まってくれた日本人(市役所の言)として歓待を受け、その後長く市長夫妻らとの交流が続いた。この取材実現には、当時の斉藤大使夫妻、木名瀬参事官が努力した。企業としては、ニッサンが取材車を提供して長期取材に協力した。なお、高橋監督夫妻は、1979年、当時の[[皇太子]][[明仁]][[親王]]・同妃[[美智子 (皇室)|美智子]]に招かれ四人で懇談したが、その際の話題の一つが、この事件であった。高橋取材の翌年ぐらいに皇太子夫妻も同墓地を訪問していたことで感動を共感し、今日まで、皇室との交流が続くこととなったが、天皇はカウラ戦友会の代表者の名前をすらすらと口にし、高橋を驚かせた。(高橋克雄の記による){{要出典}}<!--高橋克雄の、なんという記述によるものか?-->
戦後60周年を経た今日、カウラ事件をきっかけにした日本とオーストラリアの友好的な関係が築かれており、[[2004年]][[8月]]にはカウラ事件60周年式典が行われている。
 
* [[1988年]]、T・グリン神父がオーストラリア元捕虜兵と一緒に直江津を訪問し、故人をしのぶ銘版を寄託。日本人は、カウラ事件以降毎年慰霊祭を行っていることを知る
* [http://www.cowratourism.com.au/WPOperator.aspx?ProductId=9013712&type=PRODUCT_ATTRACTION&qlink=%2fdefault.aspx%3fPageID%3d119%26qt%3dCAT%253aPRODUCT_ATTRACTION%26qpage%3d2 Japanese and Australian War Cemeteries, 日本人・オーストラリア人戦争慰霊墓地]:カウラ事件、ダーウィンでの戦没者墓地。 オーストラリア人・日本人墓地が整えられている。日本人墓地には、夫々に名前が彫られた個別の墓石が整えられている
* [[カウラ|日本庭園]]:カウラ捕虜脱走事件への追悼の意を込めて造園された(Bellevue Hill)
 
* [[1995年]][[10月8日]]、直江津・平和記念公園開設
[[2006年]][[11月]]、[[聖路加国際病院]][[名誉院長]]などを務める [[日野原重明]]が訪れる
 
== 関連項目 ==
[[新潟県]][[上越市]] [[直江津捕虜収容所]](正式名称:東京俘虜収容所第四分所)に収容されていたオーストラリア人捕虜300名のうち60名が、[[1942年]]12月から翌年の3月まで続いた大寒波が原因で肺炎などを起こし病死した。戦後、収容所の警備員8名が捕虜虐待を理由に[[BC級戦犯]]とされて[[横浜裁判]]にて死刑判決を受けて処刑された。横浜裁判では最多の死刑判決が出た。
 
以来現在、毎年カウラでは[[慰霊祭]]が行われている。
* [[1988年]]、T・グリン神父がオーストラリア元捕虜兵と一緒に直江津を訪問し、故人をしのぶ銘版を寄託。日本人は、カウラ事件以降毎年慰霊祭を行っていることを知る
* [[1995年]][[10月8日]]、直江津・平和記念公園開設
 
戦後60周年を経た今日、カウラ事件をきっかけにした日本とオーストラリアの友好的な関係が築かれており、[[2004年]][[8月]]にはカウラ事件60周年式典が行われている。
* [http://www.ajf.australia.or.jp/societies/ja/joetsu.html 上越日豪協会]
 
カウラ事件、ダーウィンでの戦没者墓地。 オーストラリア人・日本人墓地が整えられている。日本人墓地には、夫々に名前が彫られた個別の墓石が整えられている。<ref>{{cite web | url=http://www.cowratourism.com.au/WPOperator.aspx?ProductId=9013712&type=PRODUCT_ATTRACTION&qlink=%2fdefault.aspx%3fPageID%3d119%26qt%3dCAT%253aPRODUCT_ATTRACTION%26qpage%3d2 | title=Japanese and Australian War Cemeteries (日本人・オーストラリア人戦争慰霊墓地) | accessdate=2008年6月18日}}</ref>
* "[[私は貝になりたい]]" [[加藤哲太郎]] - 当時 直江津捕虜収容所 と同じ新潟市にあった東京俘虜収容所第五分所長の所長であり、最大規模の戦犯裁判であった。
 
* [[カウラ|日本庭園]]:カウラ捕虜脱走事件への追悼の意を込めて造園された(Bellevue Hill)
*1970年 教育映画製作者の株式会社東中代表・高橋克雄監督とその妻であり製作者の富美子夫妻が、JETROの海外PR映画『オーストラリア・東経135度上の隣人』製作取材のため、カウラを訪問している。日本人墓地取材には、前市長オリバーとカップス市長夫妻が正装して同行した。事件の戦死者(オーストラリア警備隊による機関銃掃射)が、広島師団出身者であることから、広島の地酒を持参して墓に注ぎ、慟哭、撮影に苦慮した。墓地は映画として記録され海外広報に使われた。高橋夫妻は、日本人墓地が出来てから初めてカウラ市に泊まってくれた日本人(市役所の言)として歓待を受け、その後長く市長夫妻らとの交流が続いた。この取材実現には、当時の斉藤大使夫妻、木名瀬参事官が努力した。企業としては、ニッサンが取材車を提供して長期取材に協力した。なお、高橋監督夫妻は、1979年、当時の[[皇太子]][[明仁]][[親王]]・同妃[[美智子 (皇室)|美智子]]に招かれ四人で懇談したが、その際の話題の一つが、この事件であった。高橋取材の翌年ぐらいに皇太子夫妻も同墓地を訪問していたことで感動を共感し、今日まで、皇室との交流が続くこととなったが、天皇はカウラ戦友会の代表者の名前をすらすらと口にし、高橋を驚かせた。(高橋克雄の記による){{要出典}}<!--高橋克雄の、なんという記述によるものか?-->
 
[[2006年]][[11月]]、[[聖路加国際病院]][[名誉院長]]などを務める [[日野原重明]]が訪れる
 
== 註 ==
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== 関連項目 ==
* [[新潟県]][[上越市]] [[直江津捕虜収容所]](正式名称:東京俘虜収容所第四分所)-- 同収容所に収容されていたオーストラリア人捕虜300名のうち60名が、[[1942年]]12月から翌年の3月まで続いた大寒波が原因で肺炎などを起こし病死した。戦後、収容所の警備員8名が捕虜虐待を理由に[[BC級戦犯]]とされて[[横浜裁判]]にて死刑判決を受けて処刑された。横浜裁判では最多の死刑判決が出た。
* "[[私は貝になりたい]]" [[加藤哲太郎]] -- 当時 直江津捕虜収容所 と同じ新潟市にあった東京俘虜収容所第五分所長の所長であり、最大規模の戦犯裁判であった。
 
== 参考資料 ==
* [[ハリー・ゴードン]] 著 [[山田真美]] 訳 『生きて虜囚の辱めを受けず カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走』 清流出版、 1995年。
* [[山田真美]] 『ロスト・オフィサー』 [[スパイス (出版社)]]、 2005年。
 
* [http://www.awm.gov.au/research/bibliographies/b45cowra.htm Reading list - Cowra Outbreak]
 
* ''Dead Men Rising'', Sydney: Angus & Robertson出版 ([[1975年]]). 著者 Mackenzie, Kenneth(当時カウラに駐屯)
 
===映像作品===
* 『初めて戦争を知った - 若者たちの旅 (2)生きて虜囚の辱めを受けず - オーストラリア・カウラ事件』, [[1993年]]、[[NHKエンタープライズ]] (参照:*1)
 
* ''[[The Cowra Breakout]]'' ([[1984年]]):10時間ミニシリーズのドキュメンタリー;
** 監督:[[クリス・ヌーナン]]、 [[フィリップ・ノイス]]
** 脚本:[[Margaret Kelly]]、 クリス・ヌーナン
 
*『Broken Sun』(2008)[http://www.brokensunfilm.com/] [http://www.imdb.com/title/tt1101031/]
**監督:Brad Haynes
**脚本:Dacre Timbs
 
*『カウラ捕虜収容所からの大脱走』(2008年[[7月]]放映、[[日本テレビ]])[http://www.ntv.co.jp/cowra/]
 
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* [http://www.cowratourism.com.au/WPOperator.aspx?ProductId=9013712&type=PRODUCT_ATTRACTION&qlink=%2fdefault.aspx%3fPageID%3d119%26qt%3dCAT%253aPRODUCT_ATTRACTION%26qpage%3d2 Japanese and Australian War Cemeteries] - 日本人・オーストラリア人戦争慰霊墓地
* [http://www.cowratourism.com.au/WPOperator.aspx?ProductId=9008461&type=PRODUCT_ATTRACTION&qlink=%2fdefault.aspx%3fPageID%3d119%26qt%3dCAT%253aPRODUCT_ATTRACTION%26qpage%3d2 P.O.W. Theatre] - 捕虜収容所についての解説(9分のホログラム)
 
* [http://www.cowratourism.com.au/WPDestination.aspx?DProductID=9017291 カウラの観光案内]
* [http://www.cowrajapanesegarden.com.au/ "カウラ日本庭園オフィシャルサイト"]
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* [http://www.hindu.com/thehindu/mag/2005/02/13/stories/2005021300250700.htm "Uprisings remembered" ] S. Muthiah, in [[The Hindu]] (Indian national newspaper). (February 13, 2005)
* [http://www.naa.gov.au/Publications/fact_sheets/fs198.html "Fact Sheet 198: Cowra outbreak, 1944 ] [[National Archives of Australia]]. (2000)
* [http://www.ajf.australia.or.jp/societies/ja/joetsu.html 上越日豪協会]
 
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