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'''オルホン渓谷'''(オルホンけいこく)は[[モンゴル]]中央部の[[オルホン川]]両岸に広がっている[[渓谷]]。首都[[ウランバートル]]の西方約360km360 [[キロメートル|km]]にある。その渓谷の[[文化的景観]]は、2000年以上にわたって培われてきた[[遊牧民]]の伝統を例証するものとして、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。
 
== 重要性 ==
何世紀にも渡って、オルホン渓谷は[[ステップ_(地形)|ステップ]]の王者の座所と見なされてきた。その最初の徴は、8世紀の[[突厥]](とっけつ、とっくつ)の[[可汗ハーン]](可汗)[[ビルゲ]] ([[:en:Bilge Khan|Bilge Khan]]) によってこの渓谷に立てられた[[オルホン碑文]] ([[:en:Orkhon script|Orkhon script]]) を刻んだ石柱である。
 
この石柱の北方約40キロメートル(約25[[マイル]])には、聖なる森に覆われた山エチュケン ([[:en:Ötüken|Ötüken]]) のすぐ近くに、オルド(Ördü, 遊牧民の拠点)があった。[[契丹]](きったん、キタン)人がこの渓谷を支配していたときには、石柱は契丹の権力者の偉業を記録しておくために、3つの言語で刻み直された。
 
山々は[[テングリ]]崇拝における世界の枢軸として神聖視されていたが、わけてもエチュケンは特別視されていた。それは、この山に可汗の祖霊が宿っていると信じられていたからである。加えて、エチュケンからはクット (qut) と呼ばれる霊力が発していて、それが可汗に[[テュルク]]を支配する神権を与えていると信じられていた<ref>Franke, Herbert. ''The Cambridge History of China''. Cambridge University Press, 1994. ISBN 0521214475. Page 347.</ref>。ゆえにこの渓谷を制する者はテュルクの支配者たることを天から認められたと見なされ、集団を統率することが出来たのである。
 
だから従って、オルホン渓谷を支配することはテュルクのどの集団にとって戦略的最重要項目に属し、歴史上、突厥もモンゴル人も拠点をこの地に置いたのである。
 
== 遺跡 ==
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[[Image:Kyzyl_orkhon_inscription.jpg|thumb|オルホン碑文]]
* [[オルホン碑文]]
*: 8世紀初頭のビルゲ・ハンからクル・ティギン (闕特勒:[[:en:Kul Tigin|Kul Tigin]]) までの[[突厥文字]]による記録。明らかに[[突厥]]のモニュメントの中で最も際立ったものである。1889年から1893年にかけて、ロシアの[[考古学]]者たちが発見し、解読した。
* カル・バルガス遺跡 (Ruins of Khar Balgas)
*: 8世紀の[[ウイグル族]]の[[オルド・バリク]]の遺構。50km50 [[平方メートル|km&sup2;]] に宮殿、店、寺院などがあった。
* [[チンギス・ハーン]]の首都[[カラコルム]]の遺跡
*: 有名な[[上都|ザナドゥ]]の宮殿を含んでいる。