「ジョーゼフ・ピューリツァー」の版間の差分

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[[Image:Pulitzer.jpg|thumb|ジョーゼフ・ピューリツァー ]]
'''ジョーゼフ・ピューリツァー'''('''Joseph Pulitzer''', [[1847年]][[4月10日]] - [[1911年]][[10月29日]])は、新聞出版者および[[ジャーナリスト]]。[[ピューリッツァー賞|ピューリツァー賞]]は彼にちなんで設立された(名前は実際には"Pull it, sir."(プリツァー)のように発音されるべきであるとされる。自身の発音はこうであった)。
 
== 生涯 ==
[[ハンガリー]]の[[チョングラード県]][[マコー]]で、[[ユダヤ系]]の家庭に生まれる。[[1864年]]にアメリカへ移住し、[[南北戦争]]に従軍した。その後[[ミズーリ州]][[セントルイス]]に定住した。ここで彼は[[1868年]]にドイツ語の日刊新聞「ウェストリッヒ・ポスト Westliche Post」で働き始めた。彼は[[共和党 (アメリカ)|共和党]]に加わり、[[1869年]]にミズーリ州議会議員に選任された。[[1872年]]に彼は3,000ドルでポスト紙を購入した。その後、[[1878年]]には2,700ドルでセントルイス・ディスパッチ紙を買い、二紙を統合しセントルイスの日刊新聞、セントルイス・ポストディスパッチ紙とした。
 
[[1883年]]にピューリツァーはジェイ・グールドから346,000ドルでニューヨーク・ワールド紙を購入した。それは年間40,000ドルの赤字を出していた。ピューリツァーはワールド紙の焦点を、人間の興味の物語、スキャンダルおよびセンセーショナリズムへ移した。[[1885年]]、彼は下院議員に選任された。その購読者数は彼が同紙を購入した時点の15,000から600,000に達しアメリカで最大の新聞になった。[[1887年]]には、彼は有名なジャーナリスト、ネリー・ブライを雇用した。
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ジョーゼフ・ピューリツァーは1911年に、[[サウスカロライナ州]]チャールストンの湾の彼のヨットで死去した。彼は[[ニューヨーク州]]ブロンクスのウッドローン墓地に埋葬されている。
 
[[Category{{DEFAULTSORT:アメリカ合衆国のジャーナリスト|ひゆうりつああしよせふ]]}}
[[Category:1847年生|ひゆうりつああしよせふユダヤ系アメリカ人]]
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[[ar:جوزيف بوليتزر]]