「安藤統男」の版間の差分

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*翌1983年は、前年の成績が優勝した[[中日ドラゴンズ|中日]]より1勝多く、最多勝の巨人とは1勝少ないだけだったため、ファンの間で19年ぶりの優勝の期待が盛り上がった。[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]で19年ぶりの優勝が続いた([[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]・[[埼玉西武ライオンズ|西武]]、いずれも前身球団から)こともあり、次は阪神という気運となったがシーズンが始まると早々に巨人の独走を許し、優勝は安藤の退任後(その後を継いだのはチームの大先輩である[[吉田義男]])に持ち越されることになった。
*1984年には、[[福間納]]が中継ぎで登板を重ね、[[稲尾和久]]の持っていたシーズン登板記録(78試合)に迫るところに来ていた。このとき、プロ野球記録の調査研究で知られた[[宇佐美徹也]]は安藤監督に手紙を書いて、「形だけの記録の更新」を思いとどまるよう懇請したという。この手紙の故であったかは定かでないが、結局福間の登板数は稲尾より1試合少ない77試合となった。また、このシーズンの終盤には[[掛布雅之]]と中日の[[宇野勝]]がホームラン王のタイトルを争い、両者同数で両チームの直接対決が最終カードとなって、お互いが敬遠合戦を演じたためプロ野球ファンから多くの批判の声があがった。このように、最後のシーズンは記録やタイトルをめぐる騒動に巻き込まれて終わる形になった。
*1984年のシーズン中自宅に差出人不明の封書が届きそれを開けた夫人の頭が一瞬にして真っ白(髪の毛が白髪になってしまった、ただし[[ベルサイユのばら#その他|実際にはそんな現象は起こりえない]])になってしまった。というのも[[ゴキブリ]]の死骸が入っていたためで送った主は氏名不詳の阪神ファン人物。これに限らずこの年安藤は氏名不詳の阪神ファン人物によるいやがらせを受けていてこれがシーズン終了後の辞任の端緒となっている。
*なお、上記の件によるトラウマから安藤は辞任後再び指導者として阪神のユニフォームに袖を通すのをためらっている{{要出典}}。加えて夫人の体調の悪化により、優秀な指導者でありながら50歳の若さで現場を退いてしまったことが惜しまれる。
*[[2001年]]に夫人の脱税発覚で退陣した[[野村克也]]に代わり、阪神の監督後任候補として上げられたが、夫人の介護に専念するために断っていた。
*趣味はクルマで、実家帰省時には飛行機や新幹線ではなく[[アルファ・ロメオ]]で東名を飛ばしたほど。