「マルティン・ルター (外交官)」の版間の差分

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==生涯==
ルターは、[[家具]]の撤去と[[インテリアデザイナー|室内装飾]]の会社を経営していた。リッベントロップが[[1936年]]に[[ロンドン]]へ派遣された際に、[[ベルリン]]から家具調度の運搬と「リッペントロップ事務所」(Dienststelle Ribbentrop)の内装を手がけたことから、彼との縁が出来る。その後リッペンドロップが[[大使]]となると、[[大使館]]の内装を担当する傍らリッペンドロップの一連の外交工作にアドバイザーとして関わることになった。やがて[[1938年]]にリッペンドロップが[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]の後任として[[外務大臣]]となると、ルターも外務省入りし外交政策の立案に公式的に関与する。
 
[[1940年]]5月、彼は[[親衛隊_(ナチス)|SS]]と外務省の連絡役の地位に任命された。そして、外務省から[[ヴァンゼー会議]]の代表に選ばれた。このヴァンゼー会議は[[親衛隊上級大将|SS上級大将]][[ラインハルト・ハイドリッヒ]]により招集されたもので、「[[ユダヤ人問題の最終的解決]]」の詳細を決定するために開かれた。この会議でルターは、占領した[[ヨーロッパ]]中から大規模な「移住」が必要であることに関して懸念を表明した。この発言は、彼自身何が計画されているか完全に理解していないことを示している様でもあった。
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