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日本海軍軍人
 
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[[1900年]]3月から[[海軍大学校]]で学び始めたが、[[義和団の乱]]により一時退学し、[[常備艦隊]][[参謀]]、「[[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]]」分隊長、[[佐世保鎮守府]]参謀を勤めた後復校し、[[1901年]]5月、海大(将校科甲種2期)を卒業した。[[呉鎮守府]]参謀、[[海軍砲術学校|砲術練習所]]教官、[[イギリス]]駐在、イギリス海軍大学入校などを経て、[[日露戦争]]では[[第一艦隊 (日本海軍)|第1艦隊]]司令部付(香港丸乗組)、同艦隊参謀として出征した。
 
砲術練習所教官、第1艦隊参謀、海大教官、教育本部第2部員、「[[ワリヤーグ 宗谷_(防護巡洋艦)|宗谷]]」[[艦長]]、「[[筑波 (巡洋戦艦)|筑波]]」艦長、海兵教頭、教育本部第1部長などを歴任し、[[1915年]]12月、[[海軍少将]]に進級。第1艦隊参謀長、[[横須賀鎮守府]]参謀長、[[海軍砲術学校]]長、兼[[海軍水雷学校]]長、[[練習艦隊]]司令官などを経て、[[1919年]]12月、[[海軍中将]]となった。以後、将官会議議員、軍務局長、海大校長、[[軍令部次長]]、横須賀鎮守府司令長官、軍令部出仕を経て、[[1925年]]3月、[[予備役]]に編入された。
 
==家族==