「ネルソン・マンデラ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
スタイルの訂正
冗長な記述を簡略化、「発音」ではなく「読み」、「財団」ではなく「基金」、「four-double six-six-four」(これでは 4W664になってしまう)ではなく「four-double-six, sixty-four」
126行目:
[[1918年]][[7月18日]]にトランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれる。ウィトワーテルスランド大学法学部を卒業。在学中の[[1944年]]にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。その後[[1950年]]、ANC青年同盟議長に就任する。
 
[[1952年]]8月に[[ヨハネスバーグ]]にて[[オリバー・タンボ]]と共に弁護士事務所を開業する。その年の12月にANC副議長就任。[[1958年]]、ウィニーと結婚。[[1961年]]11月、ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)という[[軍事]]組織を作り最初の司令官になる。それらの活動などで[[1962年]]8月に逮捕される。[[1964年]]に国家反逆罪終身刑となり[[ロベン島]]に収監される<ref>このときの、彼のマンデラは’64年に収獄番号が「46664」であり、現在、彼された466人目財団の活動を象徴する番号とな囚人だている。厳密には上位「466」がたことから彼の囚人番号、下位466 64」が彼の投獄されだっ年、19「64」年の下2桁である。そこからこため、「46664」は一般に、four 46664(“four-double -six, sixty-four” または “four-sixty-six, sixty-fourfour” 発音す読む)という番号は現在では彼の基金の慈善活動の多くに冠され象徴的な数字となっている。</ref>。[[1982年]]、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監。この時、イギリス人傭兵の有志が集まってネルソンを救出する作戦が立てられたことがあったが、南アフリカ側への情報漏れで中止されたと言う<ref>『ネルソン・マンデラ』 メアリー・ベンソン著</ref>。
 
=== 全民族融和の象徴 ===