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'''ニスタット条約'''({{Lang-sv|'''Freden i Nystad'''}}、{{Lang-ru|'''Ништадтский мирный договор'''}})は、[[大北方戦争]]の後、[[1721年]][[9月10日]]([[旧暦]]で[[8月30日]])に[[ロシア帝国|ロシア]]と[[スウェーデン]]のあいだで結ばれた[[講和条約]]。現在の[[フィンランド]]の'''[[ウウシカウプンキ''' Uusikaupunki ([[]](Uusikaupunki、スウェーデン語]][[スタット]] Nystad)ード)において結ばれた。前年の[[1720年]]には、[[ストックホルム条約]]も結ばれている。スウェーデンの1世紀に渡る[[バルト帝国]]に終止符を打つ[[条約]]となった。
 
==内容==
スウェーデンは[[エストニア]]、[[リヴォニア]]([[ラトヴィア]])、[[イングリア]](インゲルマンラント、イジョール)、[[カレリア共和国|カレリア]]の大部分をロシアに割譲した。[[フィンランド]]も事実上[[領有]]していたが、これは返還された(ただし[[カレリア]]地方を分割割譲する)。これにより、ロシアがスウェーデンに代わって[[バルト海]]の[[覇権]]を握った。
大北方戦争中にロシアが占領していた[[フィンランド]]、[[ヴィスマル]]、[[フォアポンメルン]]西部はスウェーデンに返還されたが、[[カレリア共和国|カレリア]]の大部分、[[エストニア]]、[[リヴォニア]]([[ラトヴィア]])、[[イングリア]](インゲルマンラント、イジョール)、また[[バルト海]]の[[サーレマー島]]と[[ヒーウマー島]](ともに現[[エストニア]]領)はスウェーデンからロシアに割譲された。これにより、スウェーデンが築き上げた「[[バルト帝国]]」は崩壊し、ロシアがスウェーデンに代わって[[バルト海]]の[[覇権]]を握ることになった。
 
==結果・影響==
この条約によってバルト海の覇権を失ったスウェーデンでは、大北方戦争中に[[カール12世]]が戦死していたこととあわせ、国王の権威を低下させた。そのため王権の制限が進められ、[[絶対王政]]下における大国主義から、いわゆる「[[自由の時代]]({{Lang-sv|Frihetstiden}})」へと移行することになった。一方で、新たにバルト海の覇権を握ったロシアは、ヨーロッパ政治における存在感を強めた。ヨーロッパの主要国はロシアに外交官を常駐させるようになり、国際政治において対ロシア関係を無視することができなくなった。国内でも[[ピョートル1世]]がその威信を強め、ロシアの「元老院」から「皇帝」「大帝」などの称号を受けることになった。
 
==関連項目==
*[[ストックホルム条約]](1720年)
 
==参考文献==
* 和田春樹ら編 『世界歴史大系 ロシア史2』 山川出版社、1994年
* 村井誠人ら編 『新版世界各国史21 北欧史』 山川出版社、2002年
 
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