「デイヴィッド2世 (スコットランド王)」の版間の差分

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[[1337年]]、イングランドとフランスの間に[[百年戦争]]が起こった。当初、デイヴィッド2世はフランス王[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]に従って北フランスの遠征に従軍した。スコットランドではデイヴィッド2世支持のブルース派の貴族達が勢力を挽回しており、[[1341年]]にフィリップ6世は、イングランドを北から牽制する目的でデイヴィッド2世をスコットランドに帰国させた。帰国したデイヴィッド2世はスコットランドの掌握に成功し、スコットランドとフランス間の古い同盟([[:en:Auld Alliance|Auld Alliance]])に従って、[[1346年]]10月にイングランド侵攻の軍を起こした。しかし[[ネヴィルズ・クロスの戦い]]([[:en:Battle of Neville's Cross|Battle of Neville's Cross]])で大敗し、デイヴィッド2世は囚われの身となった。デイヴィッド2世は[[ロンドン]]や[[ハンプシャー]]に居住し、11年間捕囚生活を送ったが、比較的自由で快適な生活だった。
 
[[1357年]]10月に、10万マーク([[:en:Mark (money)|mark]])を10年の分割払いという身代金でデイヴィッド2世は釈放された。しかし、貧しいスコットランドに身代金の負担は大きく、デイヴィッド2世は身代金の代わりにスコットランド王位をエドワード3世またはその子供に譲るという密約を交わしたが、1364年スコットランド議会はエドワード3世の息子[[ライオネル・オブ・アントワープ (初代クラレンス公)|クラレンス公ライオネル]]([[:en:Lionel of Antwerp, 1st Duke of Clarence|Lionel of Antwerp]])の次期王位を否定し、身代金を払い続けることで対抗した。
 
こうした中、[[1371年]]にデイヴィッド2世は[[エディンバラ城]]([[:en:Edinburgh Castle|Edinburgh Castle]])で死去した。子供は無く、甥で摂政として実質的にスコットランドを統治していたロバート・ステュアートが[[ロバート2世 (スコットランド王)|ロバート2世]]として王位に就き、[[ステュアート朝]]を開いた。
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[[Category:1324年生]]
[[Category:1371年没]]
[[Category:幼君]]
 
[[ca:David II d'Escòcia]]