「アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン」の版間の差分

編集の要約なし
m (Cat修正)
この時期、エリザヴェータの腹心で、副宰相の[[ミハイル・ヴォロンツォフ]]伯がベストゥージェフの政治的敵対者として台頭してきた。フリードリヒ大王は秘密裏にヴォロンツォフと接近したが、[[1748年]]、ベストゥージェフはエリザヴェータにヴォロンツォフがプロイセンから資金を受けたことを暴露しヴォロンツォフを一時的に失墜させた。
 
[[1748年]][[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]](エクス・ラ・シャペル条約)で[[オーストリア敬称継承戦争]]は一応の解決を見た。アーヘンの和約締結時がベストゥージェフにとってその権勢が中天に達したときであったが、アーヘンの和約は、ベストゥージェフの認識を遥かに凌駕し、ヨーロッパの政治状況に普仏両国の離反と英普の和解という変化をもたらした。
 
ベストゥージェフは、外交に大きな情熱をもって当たるとともに、政治的に激しい偏見を抱く人であった。このことは結果としてベストゥージェフが外交力学の変化を認識する上で妨げとなった。彼の英国贔屓もこの傾向を助長させた。
{{DEFAULTSORT:へすとうしえふりゆうみん あれくせい}}
[[Category:帝政ロシアの政治家]]
[[Category:ロシア・ソビエト連邦の外交官]]
[[Category:ロシア帝国の軍人]]
[[Category:ロシアの貴族]]
匿名利用者