「竹中重元」の版間の差分

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{{武士/生誕|[[天文 (元号)|明応]]8年([[1499年]])}}
{{武士/死没|[[永禄]]5年([[1562年]])?<br />[[永禄]]3年([[1560年]])説も}}
{{武士/別名|道祐、常善}}
{{武士/官位|遠江守}}
{{武士/主君|[[土岐頼芸]]→[[斎藤道三]]→[[斎藤義龍|義龍]]}}
{{武士/氏族|[[竹中氏]](岩手氏?)}}
{{武士/父母|父:[[竹中重氏]]}}
{{武士/妻|妙海大姉}}
{{武士/兄弟|'''重元'''、彦七郎、重光、新八郎ほか}}
{{武士/子|重行、'''重治'''、重矩、与右衛門、彦八郎ほか}}
{{武士/終了}}
 
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[[土岐氏]]、[[斎藤氏]]の家臣として仕えた。[[1556年]]([[弘治 (日本)|弘治]]4年)4月、[[斎藤道三]]と子の[[斎藤義龍]]が戦った[[長良川の戦い|長良川合戦]]では、道三方に味方した。そのため戦後、重元留守中の大御堂の屋敷に義龍勢が来襲したが、妻の妙海大姉、子の重治、重矩が奮戦してこれを退けた。
 
[[1558年]](永禄元年)、子の重治と共に菩提山の岩手弾正忠誠を攻めてこれを破り、新たに菩提山城を築いて居城とした。六千貫を知行した。

こののち近隣の[[不破氏]]と不仲になり、翌年には[[不破光治]]の襲撃を受けたが、家臣竹中善左衛門の活躍によってこれを退けた。
 
[[1560年]](永禄3年)12月、[[六角義治]]の求めに応じて[[近江国|近江]]に出陣、[[浅井氏]]と戦った。なお、[[1561年]](永禄4年)2月にも近江に出陣して戦功を挙げたため、義治より[[感状]]を受けた。