「愛宕山 (仙台市)」の版間の差分

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江戸時代5月の幟旗見物
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登った人の例。外部リンクを除く(愛宕神社は記事ができた。もう一つはこの記事を超えない)
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'''愛宕山'''(あたごやま)は、[[宮城県]][[仙台市]][[太白区]]向山にある山である。山の名は山上にある[[愛宕神社 (仙台市)|愛宕神社]]に由来する。標高75m。
[[Image:AtagoYama2006-1.jpg|thumb|240px|right|愛宕山と広瀬川(2006年1月)]]
[[Image:AtagoYama2007-8.jpg|thumb|240px|right|同じ-方向から夏(2007年8月)]]
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中世まで、[[大窪谷地]]を通って当時は荒れ野だった今の仙台市都心部を通過する道がよく使われた。16世紀前半に[[経塚]]が築かれ、[[1931年]](昭和6年)に発掘されて[[愛宕山経塚]]と呼ばれた。
 
江戸時代に[[愛宕神社 (仙台市)|愛宕神社]]が山上に建てられ、[[経ヶ峯]]から虚空蔵堂が移転してきた。愛宕山は[[奥州街道]]から外れていたが、迂路をと嘉永5年([[1852年]])に立ち寄た[[吉田松陰]]など、仙台を訪れるついでに登る人も多かった<ref>『郷土史仙臺耳ぶくろ』63-64頁。</ref>。ここから仙台の町が展望できたためである。また5月の[[端午]]の節句には、林立する幟旗を眺めるために登る人がいた<ref>1954年刊『仙台市史』第1巻395頁。</ref>。現代の観光客は[[青葉山 (仙台市)|青葉山]]から仙台市街を見下ろすが、そこは[[仙台城]]本丸であるから、江戸時代に一般人が立ち寄ることはできなかった。
 
仙台の市街が拡大し、愛宕山の麓まで住宅が建てられると、斜面の横穴は民家の物置に使われた。第2次世界大戦中には、防空壕に転用されたものもあった。こうした転用で多くの中の遺物・遺骨が失われたた。さらに後には、宅地造成のために壊されるものもあった。
 
1970年代に、[[広瀬河畔通り]]が建設され、愛宕山の東の尾根が削られた。[[1976年]](昭和51年)には、愛宕大橋建設に伴う道路工事で愛宕山装飾横穴古墳が見つかり、緊急発掘の後、取り壊された。
 
== 関連項目 ==
*[[愛宕山]] - 同名の山の一覧
 
==脚注==
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==参考文献==
*仙台市史編纂委員会『[[仙台市史]]』第1巻(本篇1)、仙台市役所、1954年。
*三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』、宝文堂、1982年。
 
== 外部リンク関連項目 ==
*[[愛宕山]] - 同名の山の一覧
*[http://www.taihakumachikyo.org/taihk/taihk069/index.html 城下から街道へ続く町・向山](太白区まちづくり推進協議会)
*[http://www.atago.org/ 仙台総鎮守・愛宕神社]
 
[[Category{{DEFAULTSORT:宮城県の山|あたやま(せんたいし)]]}}
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