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'''武士彠'''('''ぶ しかく'''、[[577年]] - [[635年]])は、[[中国]]の[[隋]]末から[[唐]]初にかけての[[政治家]]。利州都督。子に[[武元爽]]、[[武則天|武照]](後年、即位し武則天)などがいるの父他の親族は、実兄の子である[[武惟良]]は信。本貫は[[武懐亮]]、[[武懐運并州]]など文水県
 
はじめ、相里氏を正妻として、[[武元慶]]と[[武元爽]]の二男をもうけた。その後、楊夫人を後妻として、長女の越王府法曹となる[[賀蘭越石]]夫人、次女に[[武照]]、そして三女・[[郭孝慎]]夫人を相次いで授かった。
 
==経歴==
なかでも、次女であるのちの武照を最も可愛がったとされ、私財を惜しみなく投じて英才教育を授けたり、幼少期の顔立ちの美しさから、媚娘と幼名するなどの逸話が伝えられるなど寵愛ぶりもうかがえる。一説では、相を占った[[袁天鋼]]が「天に昇る」という予言をしたとされ、これを実現すべく朝廷工作として、娘を後宮へ送り込もうという画策が背景にあったとも言われるが、武照が幼い頃に没している。
財産家の家に生まれ、広く交友を結んだ。隋末に鷹揚府隊正に任ぜられた。唐公[[李淵]]が[[太原]]留守となると、士彠は召し出されて行軍司鎧参軍となった。[[劉弘基]]と[[長孫順徳]]が李淵の命を受けて兵を集めたとき、副留守の王威・高君雅らがその意図を疑ったが、士彠は「これはみな唐公の客である」と言って誤魔化した。また司兵参軍の田徳平が募兵の状況を王威に訴えようとすると、士彠は田徳平を脅して報告をとめさせた。李淵が起兵すると、士彠は大将軍府鎧曹参軍となった。[[長安]]の平定に参加した功績により、光禄大夫となり、太原郡公に封ぜられた。このころ、士彠が「陛下が長安に入られ、天子の位に昇られる夢をかつて見たことがあります」と言うと、李淵は「おまえは以前は王威の党与だった。劉弘基らが獄につながれるのを防いでくれたし、その功績をくんだからこそ、おまえを官位につけてやった。いま見え透いた媚びを私に売るのか?」と笑っていった。士彠は[[工部]][[尚書]]に累進し、応国公に封ぜられ、利州[[都督]]・荊州都督を歴任した。[[635年]]に死去すると、[[礼部]]尚書の位を贈られ、[[諡]]を定といった。[[永徽]]年間に、士彠の次女の[[武則天|武照]]が[[皇后]]に上ると、并州都督・[[司徒]]の位を追贈され、周国公に追封された。[[咸亨]]年間、[[太尉]]・太子太師の位を加えられ、太原郡王に追封され、功臣の上に列した。武照が朝政をみるようになると、士彠は忠孝太皇と追尊され、崇先府が建てられて、属官が置かれ、五代にさかのぼって王位を追贈された。[[武周]]が建てられると、[[洛陽|東都]]に武氏七廟が建てられ、帝に追冊された。[[先天]]年間、士彠の帝号が削られ、太原王とされ、武氏七廟も廃止された。
 
はじめ、士彠は相里氏を妻として、[[武元慶]]と[[武元爽]]の二男をもうけた。その後、楊夫人(栄国夫人)を後妻として、三女をもうけた。長女の越王府法曹となる[[賀蘭越石]]夫人となり韓国夫人に封ぜられた。次女に[[武照は[[高宗 (唐)|高宗]]の皇后となりそして帝位に上った。三女[[郭孝慎]]夫人を相次いで授かとなった。
 
兄に武士稜・武士譲・武士逸がおり、兄の子として[[武惟良]]、[[武懐亮]]、[[武懐運]]らがいた。
 
 
==伝記資料==
* 『[[旧唐書]]』巻五十八 列伝第八 「武士彠伝」
* 『[[新唐書]]』巻二百六 列伝第一百三十一 外戚 「武士彠伝」
 
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[[Category:唐代の人物]]
[[Category:577年生]]
[[Category:635年没]]
[[Category:唐代の人物]]
 
[[zh:武士彠]]